第9話 歌うコオロギ
コオロギは、仕事にあわせるかのように、ときどき休みを入れては、又、鳴き出します。ホルツは、これから帰る村のことを思い出しました。
コオロギが応援してくれるように鳴いても、心は沈んだままです。親方からもらった金を盗まれては、しょんぼりするのも無理はありません。
やっと、宿の主人家族の分が、でき上がりましたが、大足ハンスの分だけが、どうにもなりません。やはり、特別に大きな材料を手に入れないと無理なようです。
注文の仕事をほぼ終えて、ホルツは、テーブルにノミとツチを並べ、その脇に、でき上がったばかりの木ぐつを並べました。ろうそくの光がまたたいています。
気が付けば、夕食を食べてから、今まで、少しも休みを取らずに仕事をしていたのです。ほっとして、ホルツは、部屋の中を眺めました。
すると、壁に、ちょうど胸の高さのあたりに、誰が開けたのでしょうか、木のふたが付いた、いびつな穴が空いていました。中には、煤と埃に覆われたマリア像が立っています。掃除をしてくれる人もいないのでしょう。
寝る前のお祈りをしようと、ホルツが、マリア像に向かうと、その脇に、なにやら、ふくらんだ袋がおいてあります。
これは、昨日の旅人が忘れたものだろうか。明日、主人に渡せばいいだろうと思い寝支度を始めベッドに入ったものの、どうも中身が気になります。
中身は確かめておいたほうがいいだろうと思い、その袋を手に取りました。思ったよりもお金が入っているようです。
どこで鳴いているのか、コオロギの声が大きくなった気がします。
だいぶ夜も更けています。今、宿の主人を起こして、前の客の忘れ物を知らせては、気分を害するでしょう。目が冴えて眠れません。疲れているはずなんだがと思いながら、ホルツには、眠れない理由が分かっていました。
残されていたあの袋のお金が、気になっていたのです。誰もいないとは、わかってはいたものの、周りの様子をうかがい、袋を開けると、ホルツが、親方からもらった金額よりも多い額が入っていました。
頭の中で、このお金があれば、お母さんに体に良いものを食べさせられるし、ヨハナにも、きれいな服を買ってやることができる。だが、何もしなければ、村に帰っても一文無しで、ホルツは、本当に親方のところで修行してきたのかと馬鹿にされるだろう。
黙って自分の道具袋にいれれば、誰にも気が付かれない。どうしても、悪いことをしたくなければ、借りたことにすれば良いんだ。返せば文句はないだろう。
いつの間にか、ゆかに移ったコオロギまでが、なにか言っているようです。
「悪いことは、悪い」
もし、そこに誰かがいたとしても、コオロギがそんなふうに鳴いているとは思わなかったでしょう。ホルツの心が、そんなふうに聞いたのかも知れません。
僕だって、お金を盗まれたんだ。必要な金だったんだ。お金持ちのお金とはぜんぜん違う。貧乏人がやっと手に入れた金だ。とても大切な金だ。お役人に訴えても、訴えを聞いてはくれるが、金は戻ってはこないだろう。どうすれば、いいんだ。
コオロギは、相変わらず鳴いています。壁の中のあのマリア像が、ホルツの行いをじっと見ているような気がしました。
お金がないということは、本当に苦しいことです。貧乏人なら、お金は、殆どが食べ物にあてられるでしょう。お金がなければ、食べるものが買えずに、飢えて死んでしまうかもしれません。
死んでも、正しいことをするべきなんだろうか。そこまで、正直に生きることなどできるのだろうか。馬鹿正直と言われるんじゃないのだろうか。
そんな考えが、頭の中でぐるぐると回っています。もう一度、あの袋を持ってみました。このお金がほしい。これは、借りよう。借りるだけだ。悪いことではないんだ。
ホルツは、部屋の中をもう一度見渡しました。そこには、煤けた天井、とっくに火の消えた炉、テーブルにおかれたろうそくと、いつ付いたのかもわからないテーブルの古い傷、天井から壁に沿って映る自分の黒い影、そして、壁のいびつな穴の中には、マリアの像があるだけでした。あのコオロギは、いつの間にか鳴かなくなって、ホルツの影の中に入っていました。
カード遊びも、誰か一人が大勝したらしく、元気そうな声としょんぼりとした声が聞こえてきます。遅くまで酒を飲んでいた客も、そろそろお開きになったようです。
近くの小川から引いてきている水の音に混じって、葉ずれの音が、かすかに聞こえてきました。秋のお月さまが、この世のことは、すべて見ているよと、言わんばかりに輝いています。
どうして、そんなことをしたのか、後になって考えて見てもわかりません。袋の上に手がのり、それを、どうしようかとホルツは考えました。この部屋には、隠せるところがない。引き出しもなければ戸棚もない。何かを入れられるのは、壁にある、ふたの付いたいびつな穴だけです。しかし、鍵はかかりません。
そのとき、誰かがドアをノックしました。誰かな、今頃、こんな時間にと思いながら、
「どなたですか」
と用心のために、尋ねました。宿の主人が、何か用があるのかな。
「ご主人ですか」
「いや、わたしです」
今まで聞いたことがない声がします。びっくりして、
「わたし、わたしって、」
「わたしは、なみだ指です」
聞いたことはありませんが、どこか、なつかしい声です。
「なみだ指、なみだ指、ああそうだ、僕が、小さい頃なくした、なみだ指かい」
そういうホルツに、あの切られた指の思い出が蘇ってきました。その時、ホルツは、切られたあの指が、なぜかドアの外にいるということが、不思議とは思いませんでした。
「きみは、この宿に泊まっているのか。たった今、ドアの外に来たのか」
と、ホルツがききました。
「わたしは、ずっと、前から、ここにいました」
「わたし一人だけでは、大きな音をたてて、ドアを叩くことができません。他の四人となら、大きく大きく叩けるでしょう」
「だいぶ夜も更けているし、今頃、何の用だい」
「あなたの心をめざめさせるために来たのです」
「ぼくの心をめざめさせる。それは、どういうことだ」
ホルツは、自分の今しようとしていることが、見すかされているような気がしました。ドアの内と外で、こんな話をしているのをこの宿に泊まっている者が聞いたら、変に思うだろうと考え、
「とにかく入ってくれ」
と言いつつ、ドアの取手に手をかけようとすると、
「開けては、いけません。私が開けてほしいのは、あなたの心の扉です。あなたの心の扉が開いた時、私は、四本指といっしょに入ります」
となみだ指は、必死に語ります。
ホルツには、名前がなく四本指と、いっしょにすれば、強く叩くことができるというものの正体が、おぼろげながら、わかってきました。
四本指とは、右手に残っている四本の指のことでしょう。まだ指が四本も残っているから、こうして仕事もできるのだ。残った指にいくら感謝しても感謝しすぎることはないのだと心の中でつぶやきました。
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