大島平左衛門

 御宿『いせかひ』奥座敷。


 品川宿の海に突き出した須崎の突端の、さらに海そばにあるこの宿の、中でも一番海に近い突き出しの離れのような一室で、その男はまるで我が家のようにくつろいで座っていた。


「これはこれは大島様」

「おお、ハナ殿か、これはこれは、いつにも増して美しい」


 名前は大島平左衛門。


 俺がこの時代に来て初めて出会った、人間だ。


「大島さん、俺の目の前で女房にちょっかいかけないでくれますか、殴りますよ」

「ったく、口には気をつけやがれ町人」

「はいはい、お偉いお役人さま」


 俺はわざとらしく悪態をつきながらも、笑顔のままで大島の前にドカリと座り込む。


 もちろん、幕末の生まれではなくとも、歴史の勉強や時代劇、小説の中でこの時代に身分があることは知っている。それこそ、女中のキヨが「あれはどう見ても文無しでしょう」と胸を張って断言する、二階に逗留しているあの貧乏侍に対してでさえ、きちんと敬語は使っている。


 町人が侍に軽口なんか聞こうものなら、次の瞬間首が飛んでもおかしくない時代だ。


 ただ、大島だけは別。


「どうだい、こっちの生活は慣れたかい」

「そうですね、おかげさまで。ま、商売はうまくいってませんが」

「だめじゃねぇか」

「それはそうですね」

「ったく、そのまだるっこしい喋り方はどうにかなんないかね」

「不器用なんですよ、すいませんね」


 俺がそう言うと、大島は「ハナ殿も苦労されますなぁ」とハナに向かって笑みをこぼしながら、懐に手を突っ込み、そこから白い包みを出して畳に置いた。


「で、これは前回の分」

「多く、ないですか?」

「ああ、先方がたいそうお気に召されたようでな。色付けと先付けさ」

「はぁ」


 まったく、ありがたい話だ。


 目の前にある白い包み、これはこの時代、切り餅とか言われている五十両の包みだ。これを現代の貨幣価値で表すのはなかなか難しいところだが、十両盗めば首が飛ぶ、つまり盗人が死刑になる基準が十両だというのだから、そう考えれば、五十両は人間の首五つ分。


 安値の女郎なら問題なく身請け、つまり買い取りが出来る大金だ。


「あれの味を知ると、他ではダメだそうだよ」

「まあ、自信作ではありますけどね」


 首をすくめながら、俺はストレージを開いてそこに腕を突っ込む。


「何度見ても、手妻にしか見えねぇなぁ」

「理屈は俺にもわからないですよ」


 そして、そこから取り出したのは。


「さて、これでいいですか」

「おお、これこれ」


 日本酒の一升徳利だ。


 と言っても、この時代の日本酒ではない。


 さらに言えば、俺が元いた時代、令和の日本の日本酒ですらない。


「作っておいてよかったよね、タイガ」

「ああ、ほんとにね」


 そうこれは、俺がアリエンテにいる頃、どうしても故郷の味が恋しくなって作り出したもののうちのひとつだ。


 ドワーフの国ドガルドの皇太子、ゴ・ギギ・ルダとともに、毎日ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返してこの日本酒が出来上がった時の感動は、ルダの暑苦しい赤ら顔とともに今でも昨日のことのように思い出せる。


 で、もちろん、味は酒豪の国の皇太子のお墨付き。


「あとどれくらいある」

「心配しなくても、無くなったりしませんって」

「そうかい、じゃ遠慮なく」


 加減知らずのルダのおかげで、ストレージには、まだ、倉庫五棟分くらいの酒が残ってる。


「遠慮なんかする気ないでしょうに」

「覚えときな、商いは細く長くだぜ」

「侍の言うことですか、それ」


 そんな日本酒が、この世界では一升で二十両。


 いや、たった今値が上がって、一升で二十五両の値で売れる。


 そして、きっと買い付けたどこぞのお大名は、その倍は払っているだろうから、大島もまたずいぶんと儲けているはずだ。証拠に、これと言っておしゃれに気を使うタイプではなさそうなのに、会うたびに帯が違う。


 ここの帰りにどこに寄るのか、言わずもがなで知らせているようなもんだ。


「しかし、こんな商いしてたんじゃ、宿商いがうまくなりようがねぇな」

「たしかに、おかげで今日も二階に無一文が泊まっている、らしいですよ」

「くはっ、いい宿だね、ここは」


 そう言って笑った大島に、ハナが微笑んで話しかける。


「ぜんぶ大島様のおかげです」


 それは、間違ってはいない。


 異世界から突然この品川に転移させられた俺たちを気味悪がることもなく、面白がってというのが本音だろうけど、丁寧に世話して、この潰れた宿屋の跡を継がせてくれたのはこの大島平左衛門なのだから。


 そして、俺が異世界から持ち帰ったもので商売をしたらどうだとすすめたのも大島。


 こうして軽口を叩いてはいるが、心の底では感謝してもしたりない人間だ。


「はっはっは、本当に太助にはもったいない奥方よな」

「否定はしないですけど、あんたにいわれたくないですね」

「くはぁ、宿場役人を捕まえてあんたとはな」


 そう、大島平左衛門は品川宿の宿場役人。


 主な仕事は大名行列や朝鮮通信使などの接待と馬の世話、もしくは将軍家及び大名家など、公式な飛脚便の手配などをしている役人だ。と、いうとなんとなく下働きなイメージになるかもしれないが、まあ、品川宿の顔役というくらいには偉い人間でもある。


 それもまた、身元不詳の俺にはありがたい限りだ。


 もちろん、後ろ盾をしてもらうのには、酒の横流しだけでは足りないのだけどね。


「で、用事は酒だけ、じゃないですよね」

「ったく、せっかちだねぇ」


 大島は「俺もそのすとれいじとか言うのがほしいもんだ」と愚痴をこぼしつつ、懐を探って一枚の紙を出してきた。


「これは?」

「まあ、読んでみな」


 言われて、読んでみる。


 昔の俺であったらどう考えても読めないだろう、墨まみれのミミズが悶え苦しんでいるような文字だが、アリエンテにいるときに習得した全言語翻訳のスキルのお陰で難なく読むことが出来る。まったく、日本語にこのスキルを使うとは、取得したときには思わなかったけどね。


 ま、そんなことはどうでも良くて。


 そこに書いてあったのは、惣八郎という名の材木問屋の人となり。


「ふうん、で、これがどうしたんです」

「この男な、台場の件で随分と良い思いをしたらしくてな」


 台場の件とは、ここから目と鼻の先の海の中。


 浦賀にやって来たペリーによって太平の眠りから無理やり叩き起こされた幕府が、焦って作った砲台場の埋立地のことで、おかげで、江戸時代『北の吉原、南の品川』と言われてずっと景気のよかった品川にさらに金を落としてくれた、海に浮く打出の小槌のことだ。


「良い思いをした人間なんか珍しくないですし、良いことじゃないですか」


 実際、台場のおかげで良い思いをしている人間が、品川にはわんさかいる。


 それこそ、割りを食ったのは、おキヨを宿屋の下働きに出さざるを得なく無ったおキヨの親父さんのような海苔漁師連中くらいのもので、惣八郎のような材木屋から労働者相手の茶屋小屋に至るまで、濡れ手に粟とはいかないまでも、かなり良い思いをしていることは間違いない。


「まあな、俺も宿場役人だ、宿場が儲かるのに否も応もねぇさ、ただな」


 そう言うと大島は、少し声を抑えて絞り出した。


「江戸で消えた娘が、惣八郎の材木小屋から逃げ出してきやがってな」

「へぇ、それはそれは」


 俺の後ろで、ハナの身体に力が入ったを感じた。


「惣八郎のやつは江戸の知り合いから預かった娘だと白を切ってやがるが、察しのとおり、品川はただの宿場じゃねぇ。吉原と向こうを張る岡場所だろ。と、なればなぁ」

「人身売買ですか」

「なに?」

「ああ、その女衒ぜげんをやってるってことですか」


 岡場所とは売春街、女衒とは、いわゆる人買いだ。


 特に女衒は、人買いの中でも遊女を目当てに女を売り買いするタイプの人買いで、親がすすんで売るのを買ってくるなものから、そうでないもの、つまり。


「かどわかし、ですか」

「その線だろうと、思ってるんだがね」


 そういう外道もたくさんいる。


「というわけで」


 大島はそういうと、またしても懐から、今度は小判を一枚床において続けた。


「頼めるかい」


 小判一枚、か。


 酒一升が二十五両だっていうのに、まったく命の軽い時代だね。


「調べ、ですか」

「馬鹿言っちゃいけねぇよ、調べなら黄金色は不相応だろ」

「そうですか」


 ハナを見る、と、ハナはゆっくりとうなずいた。


「承知いたしました」

「うむ、頼んだ」


 そうこれが。


 今の俺の、もうひとつの仕事である。

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