御宿『いせかひ』  ~魔王を倒して日本に戻ったら幕末でした~

轟々(とどろき ごう)

第一章 いせかひ屋太助の日常 

第一節 大島平左衛門

いせかひ屋太助

 俺の名前は南大河。


 高校を出て就職して、地元の工場勤めを12年。


 そろそろ形だけの肩書をつけた実質一般工員を卒業して、正真正銘の役付となり、ライン生産の地獄から抜け出して管理職の地獄へジョブチェンジしようとしていた、その矢先。


 なんの因果か、社食でまずいラーメンを食っている最中に異世界へ召喚された。


「勇者よ、魔王を倒してくれ」


 というありきたりにして、拒否の出来ない王の言葉。


 こうして俺は、見たことも聞いたこともない異世界、ラノベやアニメではもはや日常と化しているらしい異世界で、魔王退治に駆り出されることとなった。


 その世界の名は、アリエンテ。


 まさに俺のその時の感情を表現したかのような名前だ。


 そこで、俺は、結構頑張った。


 召喚を司るという女神にストレージ、鑑定、成長促進というベタ中のベタらしい勇者特典をいただき、しかも魔王を倒せばこの勇者特典とアリエンテで培った力を持ったまま元の世界に戻れると約束したこともあって、俺はがむしゃらに旅を続けてきた。


 死にかけた回数など、もはや覚えていないくらいの旅を。


 殺した回数など、もう二度と思い出したくもないくらいの旅を。


 しかし、大変ながらも異世界生活は、かなり充実して楽しくもあった。


 なにせ、神の与えた勇者特典で、あっちの世界での俺はまさに無双のチート戦士。


 空も飛べるし、新幹線並みに早く走れるし、山ひとつ吹き飛ばすのさえ余裕な魔法を手に入れたりもした。そりゃ中には手強い魔物や魔族もいたし、魔王は本当に強かった。気を抜けば一瞬であの世行き、というレベルの敵だった。


 しかし、そんな魔王を倒して、王国に返った俺を待っていたのは。


 過酷な旅路を帳消しにするほどの富と名声。


 脳裏に、友人知人、何より親の顔が浮かばなければ、帰ることすらどうでも良くなってしまいそうだった。この力を持って元の世界に戻れば、きっと、元の世界でもウハウハに違いないという邪な欲望がなければ、永住しても良いとさえ思った、異世界。


 そんな異世界を、俺は、大勢の人たちの涙と喝采を背に後にした。


 約束通り、日本に帰るために。


 そして、無事に帰ってきた日本、そこは。


「ちょ、旦那様、ボーッとしてないでどいてくださいよ」

「お、おキヨちゃんごめん」

「ったく、二階のお武家さん、あれ絶対無一文ですからね」

「そ、そうか?」

「見りゃわかるで、見りゃ」


 純和風の店構え、和服の従業員、客は二本刺しの侍と伊勢参りの町人のふたり。


「吉さんも絶対そうだって言ってましたよ」

「番頭もかい、そりゃ、まあ、うーん」


 そう、返ってきたのは、間違いなく日本。


 しかし日本は日本でも、そこは令和の日本ではなく江戸時代。ちょうど浦賀に黒船がやって来て太平の眠りを覚ましてからぴったり十年、あと三年もすれば、二条城で大政奉還が行われようかという1864年の幕末。


 場所は、かつて勤めていた工場があった。今は東海道はじめの宿場町として栄える、品川。


「やっぱりあれ、一文無しかな、ハナ」

「そうね、わたしもそう思うわ」

「はぁ、やっぱ商売は向いてないわ」

「まあ、でもお金はあるし、御宿おんやど『いせかひ』が潰れることはないって」


 そう俺は、そんな幕末の品川で宿屋をやっているのだ。


 東海道より少し外れ、海に出張った須崎の突端、弁天様の鼻先に店を構える、うまい飯と美人女将が売りの宿、御宿『いせかひ』の店主として。


「儲かってるのは、宿の上がりじゃないだろ」

「それでも、お金があるのはいいことじゃない」

「ま、たしかに」


 働いているのは、番頭の吉蔵と、女中のおキヨ。


 吉蔵は元々品川の女郎屋で下働きをしていたものの、駆け出しの女郎と良い仲になって店を追い出された、生白なまっちろくてひょろっとした男。女癖は悪いものの、これで意外と仕事のできる二十とそこそこの若者だ。


 おキヨは、御宿の目と鼻の先。須崎の猟師町(漁師町)で網元をしている親方の、親方本人の言うには「だいたい八番目の娘」で、くるくるとよく動く表情が愛らしく、気が利き目が利き鼻の利く、働き者の十七歳。


 そして、もう一人。


 俺の隣りに座っている女。


「で、タイガは晩ごはんなに食べたい」


 身体のパーツのすべてが細く長く、それでいて、ふっくらとした丸みとしなやかな柔らかさを兼ね備えた身体。この時代では、働き者の証としてむしろ重宝がられている浅黒くも磁気のようにきめ細やかですべすべの肌、大きくも涼やかな瞳、ツンと控えめながらに高い鼻、ぷっくりとしてみずみずしい果実のような唇。


 まさに絶世の美女、高嶺の花と呼ぶにふさわしい美貌。


「そうだなぁ、しらすと大根おろしでいいかな」

「もう、そんなのばっかり食べてたら、栄養足らなくなるんだからね」

「野菜しか食わないお前に言われたくないよ」

  

 そして何より。


 ピンとたった、長い耳。


「仕方ないじゃない、エルフなんだから」

「ダークエルフだろう」

「同じよ、違うのは」


 さらには、ぐっと突き出した胸もまた、迫力満点のボリュームを誇る。


「おっぱいのおっきさくらいよ」

「おうおう、おハナさんずいぶん誇らしげだね」

「あら、お嫌い?」

「いいえ、大好物ですとも」


 そう、彼女はダークエルフ。


 アリエンテでは俺とともに勇者パーティーの一員として戦い、魔王殺しのパーティーメンバーとなった後はアリエンテで知らぬ者のいなかった英雄。そして、俺的には誰よりも深く揺るぎない信頼をおいていた凄腕の斥候職であり敏腕スパイ。


 その名は、コルネオの娘、ルルーイン・デル・リラ・ハナリアレ。


 それは、アリエンテ最大の王国、勇者召喚の元凶であるフルーダ王国の北に存在する大森林グツで巨大なエルフ帝国を築いていたルルーイン一族の姫。人呼んで、純血の精霊巫女。世界樹の聖女。エルフの至宝、褐色の聖宝玉。


 そして、旅の中で。


 俺の最愛の人となった、かわいい少女。


 俺が異世界を去る時、一か八かで召喚陣に飛び込んで後を追ってきた、恐れ知らずの女傑。


「ですよね、こないだは永代楼で随分とおっぱいの大きな女郎さんとお楽しみでしたしね」

「なっ、なぜそれを!」

「タイガ、わたしのジョブ、忘れた」

「あ、いや、その、すんません」


 そして現在、絶賛尻に敷かれ中の、俺の恋女房である。


 ちなみに、こちらのでの呼び名は、ハナ。


 その美貌から、瞬く間にこの品川宿で知らないひとはいないと言うほどに有名になってしまった、この宿の評判の八割は担ってくれている、御宿自慢の看板女将である。


「女たらし」

「まったく反論の余地はないです」


 そんなおハナ、向こうではいつも人の目があったせいか、ずいぶんと淡白な性格で『冷徹の黒豹』などという不名誉な二つ名を魔族につけられるような少女だった。そう、いわゆるクールビューティーなダークエルフ。


 しかし今では。


「いいわよ、この品川で商売をするんじゃ、女郎遊びの一つもできないと信用されないことくらいわかってるから」

「うーん、ま、そうなんだけど、あんまり理解されてるのもなぁ」

「なによそれ」

「嫉妬してほしいじゃん」

「贅沢がすぎる」


 などと言いながら、文机の下で隠れる様に俺の手を握り。


「妬いてないわけ、ないじゃない」


 なんてことを甘え声でささやく、かわいい女房になっている。


「少し控えます」

「ううん、いいの、それが仕事だから、でも……」


 そうしてすっと肩を寄せて、柔らかにしなだれかかるいい女でもある。


「今日の夜は、いつもより可愛がってね」

「合点承知の助」

「なんなら今からでも……」

「おいおい、まだ日は高いんですけど」

「いや?」

「いやな、わけが、ない」


 まったく、まいっちまうぜ……って。


 誰か来たな。


「すいません、旦那様」

 

 チッ、吉蔵はいつも邪魔するんだから。


 番頭吉蔵の声に、俺とおハナはすっと姿勢を正して座り直した。ちらりと横目でおハナを見れば、少し頬を膨らませている。これがまた、いつにもまして可愛い。


 この顔を見れたんだ、吉蔵の無粋も許してやろう。


「どうした、吉」

「はい、大島様が御入来にございます」


 大島様。


 その言葉に、場の雰囲気がピリリとする。


「して要件は」

「はっ、魚が取れた、そうです」

「あいわかった、では、ここに」

「へぇ」


 気の抜けた返事とともに、吉蔵の気配が消える。


「ったく、いいところだったのになぁ」

「ほんとに、大島様にも困ったもんです」


 そうは言いながらも、今度は頬をふくらませることなく真剣な眼差しのおハナ。


「まったくだな」


 そう答えた俺もまた、気を引き締めて深く息を吸い込む。


 これから起こることもまた、同じく、今の俺の生活なのだから。

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