かわいそうの定義

かわいそうの定義

　今日も仕事を終える。まだ日も沈みきっていないうちに帰ることができる。何か買って帰ろうかな？　あ、消費期限が切れそうな豚肉があったからあれ焼いちゃわないとだ、じゃあやっぱり買い物して……。

　そんなことを考えながら不意に足が止まる。急に思い出したあの時の言葉。

“かわいそう”

　その言葉に共鳴するように気分は一気に沈み込んでしまった。ああ、今日はもういいや、早く家に帰って豚肉を焼こう。今日はそれだけでいい。

　先程までは嬉しかった太陽の光が急にまとわりつくように鬱陶しく感じる。天気に悪態ついてどおすんの？そんな今の状況は可哀想な気がする。

　暑くてジリジリと頭皮を焼くような感覚、そういえば通勤退勤の僅かな時間だけれども帽子を被ろうと思っていたのに忘れていた。スリコで買ったクシャクシャにして鞄に入れられるやつ。家に置いてきたマイバッグの中にまだ入っているそれを考えて溜め息が漏れる。

“それに、あの時どうしてそう言われたんだっけ？”

　何かにつけてだから自分は可哀想かもしれないって思わされる“かわいそう”の言葉だけがずっと自分に付き纏ってきて不意に私の心を乱す。なのに言葉以外は何も思い出せないでいる。

　家に帰って、仕事着の薄い水色のワンピースを脱いで丸めて洗濯機に放り込む。買った時は涼しげでいいかなぐらいで新しい服を着ていく楽しみすらあったけれど、まさか同期の綾田さんと似たデザインだったからなんだか少し気分が下がった。普段着にしよう。あの人被害妄想っぽいところあるから「真似された」とか周りに言いふらされかねないし、なんだかもっと気が重くなってきた。

　疲労回復効果があるからとかやる理由を探しつつ、キチンと消費期限内に使い切れた小さな満足感に浸りながら豚肉だけを炒める。本当は玉ねぎも一緒にと思ってスーパーに寄るはずだったけれど、帰ってきて調理しながら少し後悔。お肉のジュージュー焼ける音と香ばしい匂いがあればまあいいかって気になる。

　明日から２連休だし綾田さんもその間に色々と忘れているだろう、さっきの事を思い返しても受け流せた気がする。

　マジックソルトがあればなんでも美味しく感じる豚肉のステーキのみ。そんな夜ご飯。一人だから箸で摘んで齧り付く。パックのご飯レンチンしようかな？ダイエットだ、我慢しよう。そうだ、明日はあのスパイス買ってみよう、前にネットでバズってたやつ、未だに私はマジックソルトオンリーだ。

　スマホで検索したら曖昧な単語だったけれどすぐに見つかる。意外と高いなあ。悩んでいると急に鳴る通知、ああ！もうそんな時間か！語学アプリのリマインダーにフランス語の学習時間を促される。

　語学マウントを取る親子が出てくる漫画の広告を見てから“ 何か勉強するならフランス語かなあ”って、何故かそう思いそんなしょうもない感じで始めたから、やる気を失うのは早くて今は怠惰でやってる無料アプリの勉強。毎日一応やってるけれど、1年経っても自己紹介ぐらいしかできない。きっと1日15分の勉強目標を達成する為にページを開いたままご飯を食べ終えてそのまま洗い物をしているからだ。

　家に帰ってからすぐにメイクを落とすべきなんだろうけれど、シャワーを浴びる時に濡れた手で使えるクレンジングで落とすのがすっかりルーティンになっている。ちなみに暫くシャワーばかりでお風呂には半年ぐらい入っていない。

　寝る前の習慣でSNSを見ながら、20代のうちにするべきことやQOLを上げる方法とか有効な時間の使い方や引き寄せの法則とかそんな情報のまとめを読み漁りyoutubeを見ているうちに眠気に襲われる。

“何か悲劇的なことがあった人生ではなかった。一言てまとめれば平々凡々。私の何が可哀想なのかな？”

　強いて言えば、今日は友達からのLINEがなかったが友好関係はそれなりにあるし、恋人は3年ぐらいいないけれど結婚したい訳ではない。むしろ恵まれている事ばかりが思い浮かぶ、実家に住む両親や兄妹との関係も悪くなく、仕事もそれなりにやり甲斐があってお金も困っていない。

　ここまで書き上げて投稿ボタンを押した。

『こんな私ってかわいそうですか？独女の呟きブログ』

　25歳って感じはしない。

　ひらがなが可愛いって思っていそう。

　これが妄想なら可哀想なんじゃない？

　朝6時半に起きる。2度寝しなかった。アラームの音を変えたのが良かった気がする。

　今日はカルディに行ってあのスパイスを買う。もうブームも落ち着いた頃だからきっと売ってるだろう。レンチンしたパックのご飯にバターと醤油を混ぜて朝ごはん。卵も買って帰ろう。

　楽しい気持ちで家を出たけれど、行きつけのカルディでは結局スパイスが売り切れでハシゴして３件目でようやく購入出来たと思ったら卵を買い忘れて帰ってきた。

“かわいそう”

　確かに可哀想だ。投稿ボタンを押す。でも、昨日はまとめサイトを見て勉強をした。卵を買いにまた出かけてその帰りにカフェでコーヒーを飲んで、クッキーをサービスでもらえた。小さな幸せを見ることが大切なんだと思う。写真を添えて。

@☆☆☆

今日は雛さんが元気そうでなんか嬉しい

　幸せはやっぱり連鎖するんだ。

　隆弘からの久々のLINE。別れてから1回も連絡なかったから「久しぶり」の短い文章と上の方に表示されているアイコンに少しドキドキした。

“復縁したかったときは駄目だったのに、執着が減ったからかな？”

　急遽明日ランチすることになって、服を選びながら考える。

“きっと復縁しようって話だよね？”

　そうとしか考えられなかった。その日はそれから夢心地でそのまま当時ランチの時間になった。

　ちょっと遅れちゃったけれど、にこやかに待ち合わせ場所のカフェの前で手を振る隆弘は前より少し柔らかい感じになった気がした。

「お前が大切だから持っていて欲しいんだ」

　大事な話があるって言われていた。

　水晶が入ったスノードームを80万円で売られそうになった。

「お前が死ぬ夢を見たんだ……守らせてくれないか？」

　涙ながらに語る気迫に押されそうになった。

「なんでスマホばかりいじってるんだ？」

　投稿ボタンを押す。カフェ代の2,000円だけ机に置いて席を離れる。呼び止める声がするけれど追いかけてはこなかった。

『こんな私ってかわいそうですか？独女の呟きブログ』

　本当の話なら可哀想だと思う。

　元カレってこの人？水晶結界師...http....

“かわいそう”

　昨日わざわざハシゴして買ったスパイスが見切り品でイオンに売っていた。

“かわいそう”

　Tからの私の死を匂わせる予言めいたトークばかりくるLINEはブロックした。

“かわいそう”

　月曜日に出社したら、Aさんは休みだった。少しほっとしたのも束の間、彼女のやっていた仕事を代わりに私が任されることになり、恨まれそうで憂鬱だ。

@★★★

　あるある！分かるよ！まさに灯台下暗し

　これ本当の話？

　同期の話ホント？元カレの話は嘘にしても

　JRに乗って取引先のところに向かう途中、高校生ぐらいの男の子二人が目の前の席に座っていて、一人は黒髪眼鏡なんだけれどクールなイケメンって感じで、もう一人はいかにもチャラそうな金髪ピアスな、なんで仲良し？って二人。チャラい方が「マジ彼女欲しいーあの目の前の綺麗なお姉さんみたいな！」って私の方指差す(指差すなよ)けれど、黒髪眼鏡君は全く興味無しでフウって一息ついたら「僕はキミ以外に興味ないから」とか言ってる恋の始まり見ちゃったんだよね。てか私のこと当て馬にするな！

@※※※

のちに結婚する二人を見届けたモブ

ヒナさんが美人ってことしか目に入らなかった

ヒナは俺がもらう

絶対嘘だろこれ、かわいそうな人

“かわいそう”

　この文字に反応する。多分、多分だけれど、これは幼き日の自分の言葉だったような気がする。誰に言ったかもわからないこの言葉が今私に戻ってきた。