泥、血、止まぬ雨情

@kajiwara

雨は、いつか

 ざあざあ、ざあざあと騒がしい音が鳴りやまない。


 暗雲から止めどなく、雨が降り注ぎ地を濡らす。とある茶屋の中で、天井の隙間から落ちてくる雨漏りが、目の前のお猪口を濡らすのをその男は黙って眺めている。


 建てられてからかなり古い茶屋なのだろうか、男が座る椅子も机も茶色く色褪せており、本来活気で賑わっているであろう店内には男以外誰もいない。ただ、雨による湿気もあるがどんよりとした空気が場を渦巻いている。


 看板娘どころか店主さえもいない。奥の棚には割れた茶碗や湯飲みなどが転がって放置されており、掃除さえもされずに至る所に蜘蛛の巣が張っている。そんな殆ど廃墟にさえ近い茶屋で男は椅子に座り項垂れている。


 男の身なりもまた奇妙だ。着用している白色の着物はだらしなく胸元をはだけており、一体何かあったのか足元は泥に塗れ、かつ腕の部分には赤黒い染みが滲んでいる。


 黒髪の長髪がだらりと、柳の様に目を隠すのも気にせず、男は項垂れ続ける。目の前の、雨が溜まっていていっぱいのお猪口と倒れているとっくりさえも気にする様子もなく。と、男は小さく顔を上げた。そうして何かを決意したのか、鞘に入ったままの刀を掌にグッと握りしめた。その時である。びちゃり、と店先で何者かが泥を跳ねつつ足を踏み入れる音が聞こえてきた。


「やっと見つけたぞ、藤乃」


 開いている唐傘を閉じて、その何者かは項垂れている男――――藤乃、に声を掛けた。藤乃は表情も変えずに俯く。むしろ、顔を背ける、と言った方が正しい。


「ここだと思ってたんだ。俺の勘もなかなかだろ?」

 

 明るい声色で話しながら茶屋へと入ってきた男は、だらしがない藤乃とは対照的な姿をしている。皺ひとつもなく、しっかりと仕立てられており汚れもない立派な裃(かみしも)に身を包み、形良く結われた丁髷に剃られた髭跡。裃の上からでもそれとなく分かる体格の良さと、醸し出される風格といい、あらゆる意味で藤乃と正反対だ。


 腰元に差している二本の刀、その内の脇差には吉川新兵衛と名前が彫られている。吉川はにしてもひでえ雨だな……と呟きながら、藤乃の正面に座ると朗らかな様子で顎を摩りながらも、話し出す。


「こちとら昨日からてんやわんやでよ、ゆっくり釣りをする暇もねえ。家臣諸共あのぼんくら息子が斬り殺されて岡っ引きから何から一斉捜索だ」


 そう言い吉川は朝から晩まで犯人探しで寝れりゃしねえよ、と生欠伸をして頬を掻きつつ、おっ、酒あるじゃねえかととっくりを手に取り馬鹿野郎、空じゃねえかよとわざとらしくおどける。先ほどから外の雨音が勢いを増し、更に煩くなる。藤乃は無言のままだが、吉川はそんな雨を眺めながら懐かしむ様に。


「なぁ、藤乃。こういう雨ん見ると思い出すよな。餓鬼ん頃に水たまりん中飛び込んでよ、どっちが派手に飛沫飛ばせるかなんてくだらねえ事してたよな、楽しかった。結局二人して叱られてよ」


 藤乃は無言のままだ。目を細めながら吉川は両腕を組むと、朗らかな口調から一転――――はっきりと、問いかける様な口調で言い放つ。


「何で先走ったんだ、お前」


 今まで何の生気も感じられなかった藤乃の瞳孔が、静かに見開く。吉川は腕を組んだまま、背筋を伸ばし、藤乃を見据える。その顔は先ほどまでの朗らかさはなく、真剣な面持ちである。藤乃はいまだ沈黙するが、吉川は更に畳みかける。


「藤乃。誓い合ったよな。お前が町民の安全を守ってる間、俺は中から変える、必ず今の体制を変えてやるって。お前は俺に頼むぞと言ったよな。だから俺は」


 藤乃は机の下、刀を握る手に再度力を込める。それでもまだ、口を開こうとしない。吉川はそろそろ苛立ってきたのか、椅子から立ち上がる。体格の良さもあり、強い威圧感が立ち込める。しかしあくまで牽制のつもりか、吉川はその場からは動かずに藤乃を見据えながら冷静な口調で語りかける。


「……頼む、藤乃。俺と共に戻れ。出来る限りの事はする。し、お前の心中は……」

「吉川」


 初めて、藤乃はそこで声を発する。


「引く気はない」


 雨音の中でもはっきりと聞こえる程、揺るぎない声で藤乃はそう言った。ピクリと、吉川の目尻が動く、藤乃は長髪の間から見える――――鋭い眼光から吉川を睨み上げながら、己の意志を表明する。


「あの外道を……のうのうと生かしておけなかった。俺にはもう、ああするしかなかった」

「それがお前のしたかった事なのか? あの一方的な殺しがか?」


 藤乃は頷く。その返答を聞いた吉川の顔には明確な感情が、怒りとも失望とも、それらが一緒くたに入り混じったような、そんな表情がありありと浮かんでいる。そうして本心なのか、今までになく狼狽した様子で。


「藤乃……藤乃頼む、聞いてくれ。……分かるだろ。この世は善悪だけでは回らぬ事くらい、お前もずっと分かっている筈だ。確かに奴は外道の畜生だ、だがこのやり方では……」

「いつまで待てばいい」

「何?」


 藤乃は吉川に問う。心の底から、というのが分かる、若干震える声色で問う。


「お前が中から変えるのを待つのは良い、俺もそれを期待していた。だが……それはいつだ。五年か、十年か、それとも俺やお前が死んだ後か」

「藤乃……!」

「変化を待ってる間に……死んだんだぞ、子供が」


 藤乃が更に続けようとした、その時だった。突然吉川が短く鋭い声で叫んだ。


「藤乃!」


 吉川は名を叫ぶと同時に一瞬の動作で、直刀を鞘から引き抜いた。その居合の速さは尋常ではなく、藤乃は太刀筋を目で追えずただ風圧で数本、髪の毛が地に落ちた。一見とうとう痺れを切らし攻撃を仕掛けてきた様に見える吉川だが―――その行為は殺意ではない。


 天井からカランと、渇いた音を立てて何かが落ちる。黒光りする、刃渡りの長いクナイが地面に転がっている。藤乃はそれを見、吉川に目を向ける。吉川は直刀を鞘に仕舞う。忌々しそうに歯軋りをしながら、吉川は言う。


「……俺は説得しに来たんだけどな。上の奴ら、どうしようもない」


 吉川は素早く藤乃を守る様に背を向けて、周囲を警戒する。気づけば茶屋を取り囲む、多くの人影。どうやら吉川の意志とは関係なく、藤乃を始末しようとする連中の様だ。背を向けながら、吉川は藤乃へと語りかける。


「正直……お前の気持ちはよく分かるよ。俺もお前ならもしかしたらそうしてたかもしれん。だが……辛抱してほしかった」

「吉川」

「……この茶屋の娘さん、奴に散々弄ばれたんだろ」


 藤乃の顔色が変わる。あれだけ力が入っていた手に、少しばかり緩みが生じる。


「知ってるよ。それを知って親御さんが後追いしたのもな。……あの外道を止められなかったのは、俺の責任だ」

「吉川、お前、俺を殺しに来たんじゃ」


 顔を見せず、大きな背中を見せながら、吉川は自嘲的に呟く。


「言ったろ、説得しに来たって。……違うな。話したかったんだ、お前と。例え、最後になっても」


 本格的に雨が豪雨へと変わり、雨漏りどころか屋根から降り注ぐ雨その物が二人を濡らす。吉川は顔を見上げると、雨に打たれながら笑って。


「……俺達の行く先、雨ばかりだよな、四六時中降られっぱなしだ」


 頭に笠を被った、恐らく刺客であろう者が出口を塞がんと店先前に立つ。三人、だけでなく、恐らく複数の存在がうごめく影でわかる。額から一筋の汗を流しつつ、吉川は自嘲的に笑って、呟いた。


「この雨、晴らしたかったんだけどな、俺が」


「吉川新兵衛! 藤乃喜作を引き渡せ! 抵抗は許さん!」


 刺客の一人が声高らかに吉川へと叫ぶ。同時に各々が刀を抜き出す音が雨音の隙間から聞こえてくる。その時だった。藤乃が椅子を突き飛ばす勢いで突然立ち上がった。左手で鞘を引き抜き――――右手に、刀を持って。


「藤乃!? 何をしてる!?」

「……悪かったな、吉川」


 藤乃はぼそりとそう呟くと、吉川に目もくれず、全速力で刺客の群れへと駆けていく。藤乃ー! と後ろから吉川の叫び声も聞かずに。その突飛な行動に刺客達は慄きつつも、一斉に藤乃に向かって。


「向かうならやむを得ん……成敗!」


 藤乃は容赦なく、肩を、腕を、足を四方八方から斬られ、蹴られ、殴られる。地面のぬかるみに足を取られて血だまりの中、一切の情もなく、次々と藤乃の体が切り刻まれていく。だが――――藤乃の目には、鈍い光が灯っている。


 慌てて茶屋を出た吉川の目の前には――――鞘から刀、否、


 まるで元より使い物にならない様な、根元から折れている刀を振るう、藤乃の姿が映った。吉川はその刀を見、まさかと、勘づく。藤乃、お前……元から俺に斬られるつもりでその使えない刀を……と。


 口からとめどなく血を流し、着物を真っ赤に染め上げ、容赦のない雨に曝されながら藤乃は刺客達に立ちまわる。柄を全力で殴打し、拾った刀を我武者羅に振り回し、追い被さって耳元や頸へと噛みつく。血と泥と、あらゆるものを体中から垂れ流しながら、それでも藤乃は抗い続ける。まるで、凶暴な野良犬の如く。


「こ、この、けだもの……!」

「あぁ、そうだ。俺は……けだものだ!」


 押し倒した一人の顔面を頭突きで沈め、目玉を指で潰しながら、血みどろの顔で藤乃はそう笑った、


 その時、ずぶり、と背中から刃が突き刺さる。


「あ……?」


 それに続けとばかりに、藤乃の胴体を刃が突き刺していく。やがて、動きが止まった藤乃の喉元を、息を荒げながら立ち上がってきた男が切り裂いた。その様を、吉川は見た。見てしまった。


「ふ、藤乃……」


 藤乃の喉から横一文字におびただしい量の血が流れていく。だが、不可思議な事に藤乃はまだ死なない。異常。異常な気迫で、全身から血という血を流しながらも、藤乃は立ち上がる。その様子に、ば、化け物……! と、怯えて、あまつさえ刺客達は逃げ出した。


「藤乃ー!」


 吉川は走り出す。立派な袴を泥だらけにして、途中派手に転倒しても、一心不乱に藤乃の元へと駆けつける。吉川の元へとゆっくり、ゆっくりと歩き出して、やがて力尽きたのかその場に両膝をついた。吉川は同じく膝をつき、その体を抱き寄せる。


「藤乃、すまん、俺は……」

「……新兵衛」


 満身創痍、を超えて最早死んでいるに等しいはずの状態ながら、邪気のない笑顔で藤乃は吉川へと、言う。


「……雨は、止むさ。いつか」

「藤乃、もう、もういいんだ、もう」

「……お前なら」

 

 藤乃? おい、藤乃? と吉川は何度も、何度もその名前を呼ぶ。だが、藤乃は目を閉じたまま、何も答えない。吉川は強く、藤乃を抱き抱える。降り注ぐ雨の冷たさ以上に、今の藤乃から伝る血の生温さに耐えきれなかった。


 


「……ちゃん、爺ちゃん」


 幼い声に起こされ、吉川はうつらうつらとしていた目を開く。肩を小さく揺らす、頬の赤い子供が吉川を見上げている。


「お魚さん、逃げちゃう」


 そう言われ吉川は釣竿の先へと目を向ける。確かにピク、ピクとしなっており、釣られるのを待っているかの様だ。


「おぉ、わりいわりい。ありがとな、坊主」


 と、子供の親であろう若い男性が慌てて駆けてきて吉川に謝りつつ子供と手を繋いで歩き出す。手を振る子供ににこやかに手を振りかえしていると、親子とすれ違い精悍な顔つきの男が早歩きで吉川の元に寄り添うと耳打ちする。


「網に掛かりました。如何なさいますか」

「俺がやる。お前達は俺が指示出すまで控えてろ」


 吉川の返答に男は深く頷く。吉川は素早く釣竿を仕舞うとその場から立ち上がる。と、男が吉川の懐を見。


「ご利益あるんですか、その、折れた刀」


 男の純粋な疑問に、吉川は口元に笑みを浮かべながら答える。


「護ってくれんだよ、いつもな」


 

 

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