夜の談話室
「出身が同じひとが同僚にいるらしいんだけど。地元で父親が小さな出版社を経営してるんだって。持病もあるから、その同僚が代表になって引き継ぐみたい。それで、弓削さんもその出版社で一緒に仕事をやるって……」
そういう理由なのか、と千影が納得していると、向かいに座る陽汰が怒っていることに気づいた。明らかに瞳がぎらぎらして怒気を含んでいる。
「その同僚ってひと、男ですか?」
陽汰が腹の底から出す低い声を初めて聞いた。
「……うん。そうみたいだけど」
「結野さんを捨てて、同僚を選んだとか、そういう話ですか……?」
陽汰の言葉に貫井もハッとして、次の瞬間には憤怒の顔になる。
「あの野郎……」
ぎりぎりと拳を握りしめて、忌々しくつぶやく。
「……そうだとしても、もう良いんだ」
涙目になった結野の細い肩がふるえる。思わずその肩に触れようとした瞬間、玄関から物音が聞こえた。
ガラガラという引き戸を開ける音だ。
「こんな時間に、誰でしょう……?」
千影は立ち上がって、玄関に向かった。
夜の来訪者の顔を見た瞬間、千影は体が固まった。
「夜分遅くに失礼いたします。私、結野充久さんを担当しております編集者の
威圧感がないのは、笑った顔が涼しげなせいかもしれない。人の良い、いや良すぎる笑みを浮かべながら千影に名刺を差し出した。
「結野くんと連絡が取れなくなってしまったものですから」
着信に応答はなく、SNSは既読スルーの状態らしい。なんとか仕事を終わらせて、電車に飛び乗ったという。
「……どうぞ、こちらへ」
千影は、玄関のすぐ横にある談話室に弓削を案内した。
談話室は来客があったときに使用している場所だ。小窓はステンドグラス、アンティーク調のソファとテーブルが置かれている。町屋造りの杉野館のなかで唯一、ここだけが洋風建築だった。
食堂に戻り、湯を沸かす。戸棚から急須と湯のみのセットを取り出そうとしたところで、貫井と陽汰からブーイングが出た。
「千影さんがもてなす必要ないですよ」
テーブルに肘をついた状態で、陽汰が千影に言う。
「そうだ。水道水で十分、いや水道水すらやりたくない気分だ」
貫井は腕を組みながら、談話室のほうを睨んでいる。
「一応、会社から来客があった場合にと渡されている予算がありまして……」
千影も正直なところ不本意なのだが、仕方がない。湯のみにほうじ茶を注ぎ、朝市で買った梨を盆にのせて運んだ。
扉をノックして、レトロな装飾が施されているドアノブを回す。談話室はしんと静まり返っていた。御茶うけをテーブルに置いて、すぐに出ようとした千影を弓削が呼び止めた。
「一緒に、結野くんを説得してくれませんか?」
低くて柔らかい声だ。
「あなたの意に添うように結野さんを説得するなんて、そんなこと絶対にできません。私は結野さんの味方なので」
きっぱりと主張したけれど、弓削がひるむ様子は微塵もない。それどころかうれしそうに「彼女が千影ちゃん?」と結野に確認している。どうやら、杉野館でのことは弓削に話しているらしい。
結野が「そうですけど」と返事をしたタイミングで、弓削の胃がぐるぐると鳴った。
「……失礼。食べる時間がなかったもので」
腹をさすりながら、恥ずかしいなぁという感じで弓削が頭をかく。たったそれだけのことだったけれど、弓削という男に対する印象が変わった。仕事を終わらせて、飛騨高山に向かう電車に飛び乗って。この男はその間、何も口にしなかった。それどころではなかったということだ。
悠然と構えているように見えて、実際は余裕なんてないのかもしれない。
「……説得するって、何をですか」
テーブルの横で膝をついた体勢のまま、弓削に問う。
「千影ちゃん……!」
結野が弾かれたように顔をあげた。信じられないといった表情で千影を見る。
裏切られた心地になったのだろう。決してそうではないと伝えるために、千影は手にしていた盆をテーブルに置き、結野の隣に座った。
千影の重みでソファが沈み、結野の腕とぶつかる。彼の体が、ずいぶん冷えていることに気づいた。
結野に湯のみを握らせてから、千影は弓削のほうを向いた。郷里である京都に帰ることになった話は、すでに結野から聞いている。そう告げると「それなら話が早いです」と笑った。
「一緒に京都へ来てもらえないかと言ったんです」
「……それは、一緒に暮らすということですか?」
「そうです」
「プロポーズ的なことですか」
弓削はやさしく千影に微笑んでから、結野の顔を覗き込むようにして「結野くん」と呼びかけた。
「だめですか」
まるで、小さな子供をあやすみたいな声だ。
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