彼の郷里
週明けの月曜日、千影は早朝からテキパキと業務をこなしていた。朝食を作り、昼食用の弁当もこしらえた。
弁当は粗熱がとれた頃合いを見計らって蓋を閉めて、清潔なクロスで包んでいく。出勤していく社員たちに手渡しながら、「いってらっしゃい」と声をかける。
不思議なもので、そうやって毎日声をかけていると社員の体調というか、その日の気分が手に取るようにわかる。いつも眠そうな顔をしている社員もいれば、週明けのみ憂鬱そうな表情の社員もいる。
陽汰は毎日元気ではつらつとしている。貫井はたいてい朝から疲れ切っているので心配だ。結野はいつもにこにこ顔で、朗らかな雰囲気でほっとするのだけど……。
あれ……?
何となく、今日は沈んでいるように見えた。気のせいかもしれないけど、表情が強張っている感じがする。週明けに退職する意思を上司に伝えると言っていたから、緊張しているのかもしれない。
そう思いながら、千影はせっせと弁当を社員たちに手渡し、杉野館から送り出した。
夕方、帰宅してきた結野の表情の暗さを見て、千影はどきりとした。嫌な感じに心臓が跳ねる。
配膳台で仕事をしながら、どうしても気になってしまう。箸の進む気配がない。食欲が湧かないほど思い悩むことでもあるのだろうか。
あぁ、またしてもため息を吐いた……。
ちらちらと結野の様子を伺っていると、急に目の前に人影が現れた。視界を遮るように立つ影にムッとする。結野の様子が観察できないではないか。ちらりと視線をあげると、陽汰がいた。
かなり不機嫌な様子で、じっと千影を見下ろしている。
「……千影さん、どうして結野さんのことを見てるんですか?」
「え? あ、それは……」
陽汰は、結野と担当編集者の微妙な関係性を知らない。どうしよう。どう説明すれば……。いや、説明をするのは結野の口からするべきだし……。ひたすら焦っていたら、貫井が陽汰の腕を引いた。
「お前はちょっと、こっちに来い」
「ちょっと、貫井さん? 何ですか、今は貫井さんに関係ないじゃないですか」
騒ぐ陽汰を貫井が問答無用で引っ張っていく。
頼りになる貫井に心の中で両手を合わせた。実際の手はふさがっているので無理なのだ。何しろ帰宅ラッシュで、千影はてんてこ舞いだった。
夕食の筍ごはんが思いのほか人気で、それはうれしいのだけど、新たに準備をしなければいけなくなった。
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【今日の夕食】
・筍ごはん
・牛すじ煮込み
・小松菜と人参の胡麻たっぷりナムル
・揚げだし豆腐
・サンマのつみれ汁
※筍ごはんとつみれ汁はおかわり自由です
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秋らしいメニューが好評で良かった。近頃は高級品のサンマを偶然、安く手に入れることが出来た。残念ながら人数分を確保することはかなわなかったので、つみれ汁になったのだけれども。
バタバタと慌ただしく働きながら、結野のことが気にかかる。
人の波が落ち着き、仕事を片付けた千影は結野がいるテーブルに向かった。貫井と陽汰も同じテーブルにいて、結野と向かい合って座っている。千影は結野の右隣に腰を下ろした。
時間をかけて夕食を食べ終えた結野は、千影を見て力なく笑った。
「せっかく千影ちゃんが作ってくれたものだから、残すわけにはいかないよ」
「……ありがとうございます」
結野が「ごちそうさま」と結野が言ったきり、その場に沈黙が流れる。
「それで?」
静寂を破ったのは、貫井の一言だった。
「上司に相談して、引き留められでもしたのか」
結野が力なく首を横に振る。
「あの、すみません。俺はたった今、結野さんが退職するとか、あのイケオジ編集者とデキてるとかっていう話を聞いて、もう何がなんだか意味不明でパニックなんですけど……!」
どうやら、諸々の事情を説明されたらしい。陽汰は頭を抱えている。
「デキるわけじゃない。まだ微妙なところなんだよ。というか、あの編集者は俺と年ほとんどかわらないからな? まだ若いんだから、イケオジとかいう表現はやめろ」
軽くパニック状態の陽汰に、貫井が注意する。
「弓削さん……会社、辞めるって」
結野の静かな声に、千影と貫井は驚きの声をあげる。
「え?」
「嘘だろ!?」
まさかの展開だった。編集者が退職してしまったら、結野がワカミヤを辞める理由がなくなってしまう。そもそも彼の落ち込みようを見ていたら、この先も執筆していけるのか心配になるくらいだ。
「もしかして、いま話題のFIREってやつですか?」
頭を抱えた状態で、陽汰が見当違いであろうことを言う。FIREとは、経済的自立と早期リタイア。定年退職を待たずにリタイアして暮らしていくライフスタイルのことだ。
「いくらなんでも、三十代前半で無理だろ。大手の編集者だからって、そこまで高給取りじゃないだろうし」
千影も無言でうなずきながら同意する。
「じゃあクビってことですか? まさか、担当作家に手を出したことがバレて?」
さすがに陽汰でも気を使ったのか、後半は声を落としてこそこそと喋る。
「バレるもなにも、俺と弓削さんは無関係だから。あのひとが会社を辞めること、俺はぜんぜん知らなかったし」
結野の声が、引き攣れるように震える。
「それは、お前も一緒だろう。自分で全部決めたんじゃないのか?」
「……そうですけど」
「お仕事を辞めて、どうなさるんでしょう」
千影が遠慮がちに問うと、結野は話してくれた。どうやら昨夜、編集者から事情を聞かされたらしい。
「……郷里に帰るって」
「どこなんだよ。あいつの地元は」
「京都……」
「それは……まぁ、今よりも遠くなるな」
東京からここ、飛騨高山まで来るのにも距離があるけれど、それ以上だ。
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