転々

「……俺には、無理です」


「なぜ?」


「あなたには分からないと思います」


「きみのことを理解したいと思っているんです。教えてもらえませんか?」 


「……言いたくないです」


「言わないと分からないような人間ではダメということですか」


「違います、そうじゃなくて。言って理解してもらえるなら、それで十分だと思います。察して欲しいとか、くみ取ってもらいたいとか、俺はそこまで傲慢じゃないつもりです」


「知っていますよ」


 いつまでも弓削の声はやさしい。やさしいが故に劣勢だ。


 気が付けば、話し合いは堂々巡りになっていた。結野は最後まで無理だという理由を言わなかった。こうなっては、一日で決着をつけることは不可能だった。


 その日のうちに弓削は東京に戻ることになった。


「……電話に出なくて、ごめんなさい。そのせいで弓削さんがここまで来ることになって、申し訳なく思っています」


 玄関で見送りながら、結野が弓削に詫びる。


「いいえ。結野くんの顔が見れて良かったです。会ってもくれないのかと心配していましたので。おかげで、美味しいご飯もご馳走になれましたしね」


 弓削が千影に視線をやる。


 あれからも時折、腹の音が鳴っては苦笑いする弓削だった。残り物であることを前置きして、弓削に夕食を食べてもらった。


「なんだか、決まらないなぁ」


 格好良く決めるつもりだったのに、と言いながらも出されたものは全て平らげた。筍ごはんも、サンマのつみれ汁も。食べっぷりが良く、けれど上品というか、食べ方がきれいだった。


 食堂に残っていた貫井と陽汰は、少し離れた場所から弓削を迷惑そうに眺めていた。


「敵陣に乗り込んだ感じがしますね」


 歓迎されていないことは、彼らが醸し出す雰囲気で感じ取ったのだろう。かといって弓削が居心地悪そうにする様子はなく、最後まで落ち着き払っていた。こういう余裕そうに見えるところが、貫井には気にくわないのだなと思った。


 弓削は名残惜しそうにしながら、東京に戻って行った。去り際、千影にだけ聞こえる声で弓削が言った。


「いつも充久に美味しいご飯を食べさせてくれてありがとう」


 やさしい声なのに、背筋がぞくりとした。


 貫井は敵が去ったことに安堵したらしく、これで安心して眠れると言って自室に向かった。陽汰には「夜遅いし、送っていこうか」と提案されたが、丁重に断った。


 渋々といった感じで引き下がる陽汰に「おやすみなさい」と言ってから、御茶うけに出した小皿や急須を洗う。


「なんか、色々とごめんね」


 千影の隣に立って、泡のついた湯のみを結野がすすぐ。片付けを手伝ってくれるらしい。


「……出過ぎたマネをしたのではと、反省しています」


 彼らふたりの問題なのに、つい口を出してしまった。


「そんなことないよ。千影ちゃんがいてくれて、助かった」


 急須、梨を取り分けた小皿、弓削が食べたあとの食器。千影が洗ったものを結野が順にすすいでいく。水道の蛇口から流れる透明な水を見ながら、ふいに結野の手が止まる。


「結野さん……?」


「……千影ちゃんの家まで送るよ。さすがに遅すぎるし、こんな時間になったのは俺のせいだから」


 戸締りを確認してから、結野と一緒に杉野館を出た。


「……遠回りします?」


 何となく、そういう気分なのではないかと思って結野に言ってみた。


「前から思ってたけど、千影ちゃんてときどき怖いくらい察しがいいよね」


「子供のころ、ずっと親戚の家で暮らしていたんです。良い子だと思われたくて、気を使って生活していたので、自然とこうなったんだと思います」


 どう自分が振舞えばいいのか常に考えていた。良い子でいるために、邪魔な奴だと思われないように。すべては自分のためだった。そういう自分を浅ましいと思っていた。


「やっぱり、そうなるよなぁ……」


 とうとう何かを諦めたような、けれど晴れ晴れしいような、そんな結野の声だった。


 結野も、千影と似たような幼少期を過ごしていた。


「母親が恋多き女ってやつで。男ができて、ふらっと出て行くことが多かったんだ。その間は祖父母の家で生活してたんだけど、急に迎えに来たりするんだよね」


「……相手と別れたら、戻ってくるということですか?」


「それが違うんだ。すごく良い母親の顔になってて『新しいお父さんが出来たから』って毎回言うの」


「……それは、結野さんのためを思ってのことだったんでしょうか」


「今思えば、そうだったのかもしれないけどね」


 街灯の下で、結野が肩をすくめて笑う。


「見る目がないんだよなぁ、いつも……。それで、すぐに別れることになるんだけど。いつの間にか、また新しい奴を見つけてくるんだよ」


「かなり、モテますね」


「うん、そこはすごいと俺も思う。でも大変なこともあって、父親がかわる度に名前が変わるからさ。いきなり『今日から高城だからね』とか言ってくるの。えぇ? 今の俺って高城充久なの? 昨日までの結野充久どこに行った? って感じだよ」


 まるで茶化すみたいに明るく結野が言う。無理して笑うのは、千影に気を使わせないためだ。こんなときにまで笑う彼が、痛々しくてたまらなかった。


 名前が変わって、引っ越しを繰り返して。知らない土地で、馴染みのない名前の時間が細切れにあった。そういう人生だったのだと、結野は何でもないことのように言った。

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