各々の事情

 千影と陽汰以外、誰もいない食堂は静まり返っている。


 しんみりとした気配を彼から感じて、千影は無表情のまま内心おろおろする。対人関係のスキルが著しく不足しているせいで、こういうときにどう振舞えば良いのか、何を言えばいいのか分からない。


 分からなさ過ぎて、真正面からぶつかる以外の手立てがない。


「あ、あの……大変でしたね。たくさん退職者が出て……」


 わずかに肩を揺らし、陽汰が反応する。


「うん……。まぁ、大変だったけど、最初の頃は意外に平気だったかな。自分がやるしかないって思っていたし、憤りみたいなのもあって……」


「それは……誰に対するものですか?」


 パワハラをしていた上司か、それとも……。


「示し合わせて退職したみんなに対してです」


 目線を下げたまま、陽汰が静かに答える。


「仕事を放り出すなんて責任感がないって、最初はそう思ってました」


「今は、違うんですか……?」


「上司の言動とか振舞いとか、そういう部分にずっと不満はあったみたいなんですけど。休みを許可してもらえない、ということに一番困っていたみたいです」


 申請を出しても受け入れてもらえず、けれども上司は自由に休暇を取っていたらしい。不満が溜まるのは当然だ。


 そんな毎日が続き、とうとう社員たちは我慢できなくなったのだろう。


「……つい最近、退職したうちの一人と連絡が取れたんですけど」


 元同僚の話を聞いて、そこで初めて、彼らの事情が分かったという。


「持病があって通院していたり、家族の介護があったり、シングルマザーだったり。みんなにはそれぞれ事情があったんです。一人親だと、子供が風邪を引いただけでも大変じゃないですか。俺は独り身で、家族も自分自身も元気で。自分がそうじゃないからって、想像することもできなくて」


 項垂れるようにして、陽汰が話を続ける。


「責任感がないとか、誰が言ってるんだよって話ですよね。みんな、色んなことに責任を果たそうとしてて、それが出来ないから仕事を辞めるしかなかっただけで……」


 千影は、黙って聞いているしか出来なかった。部外者だし、陽汰の言う通り、それぞれに事情があったのだろう。


「みんなが退職すること、上司を除いたら俺だけが知らされていなくて。初めは、そのことに対して特に何も思わなかったんですけど。みんなが抜けた穴を埋めるのに忙しくて、それどころじゃなかったし。でも、落ち着いてきたらだんだんそのことが気になって……」


 残業続きだった日々から解放されつつあった頃、彼は元気がなくなった。エンドルフィンの元になる、やたらこってりとした濃い味を欲していた。一息つける段階になったのに、なぜだろうと不思議に思っていた。


 やっと、その理由が分かった。


「……貫井さんにも、無神経だってよく注意されるんですけど。みんなに信用されなかったのは、たぶんそういうところだったんだと思います」


 みんなから退職を知らされず、結果的に仲間外れにされたのは自分のせいなのだと、陽汰はがっくりと肩を落として沈んでいる。


 彼が落ち込む姿を見て、千影はつい「それは違うと思います」と言ってしまった。口を出す立場ではないと弁えるつもりだったけれど、陽汰が責任を感じたり気落ちする必要はないと思った。


 だって、彼らが一方的に退職届を突き付けたあと、先頭に立ってフォローをし続けたのは陽汰だ。毎日、へとへとになりながら頑張っていた。千影はそれを知っている。


「陽汰さんって、いつも一生懸命ですよね。新しく仕事を任されたときも、それを負担に思うのではなくて、張り切って働いていたじゃないですか」


 にこにこと笑いながら「仕事を任せてもらえるのはうれしいです。いつまでも新人のままじゃダメだし」と言った陽汰を思い出す。


「そういう前向きで仕事熱心な陽汰さんのことを、皆ちゃんと見ていたんだと思います。自分たちが退職することを事前に打ち明けなかったのは、心配させたり変に巻き込んだりしないようにという配慮からだったんじゃないでしょうか」


 項垂れていた陽汰が、ゆっくりと顔をあげる。


「一生懸命に仕事をするひとから仕事を奪うようなことは、誰だってしたくないはずです」


「そう、なのかな……」


 頼りない声を出す陽汰を励ましたくて、千影は大きく首を縦に振った。


「そうです。陽汰さんは仲間外れにされていたのではなく、むしろ大事に思われていたのではないかと私は推察します。陽汰さんの前向きなところは、周りのひとも元気にするくらいのパワーがあると思ってますから」


 張り切って仕事に向かう彼の姿を見て、自分もがんばろうと思えた。生き生きと働いている陽汰から力をもらったことに間違いはないので、千影は自信を持ってそう宣言する。


 ふいに陽汰が顔を伏せた。


「ありがとう、千影さん……」

 

 声が震えていることに気づき、千影は陽汰から視線を外した。しんと静かな食堂で、ちらちらと所在なくあたりを見渡す。


 陽汰はもう何も言わない。千影も、何も言わなかった。もしかしたら、何も言わないという正解もあるのかもしれないと気づいた。


 古い柱時計の音だけが、静まり返った食堂に響いていた。

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