11


 

 シャロンの様子がおかしいのに気がついたのは、夕飯後にいつも呑んでいるビールの量が急に減ったからだった。


「……なんだ? もう飲まないのか?」

「……えぇ、もういいわ」


 彼女の顔は辛いと言うより、何か隠し事をしているかの様で、気になった俺は更に聞いてみることにした。


「なんだ? 何かあったのか? それとも体調が悪いのか?」

「え? ん~、そうね。強いて言えばに良くないかな」

「――は?」

「……3ヶ月だって。こないだ仕事中に気分が悪くなって、病院に行ったら先生にそう言わ――きゃ!」


 気がつくと俺は彼女を抱きしめ、その額に何度もキスの雨を降らせていた。彼女と暮らすようになってもう何年経っただろう、入籍もしているし、確かに俺達は書類上は夫婦関係だ。この街に来てはじめの頃は、やはり追手のことが気になり、夜はカーテンの隙間からアパートの下を何度も覗き見ていた。どんなに彼女を抱いた夜でも、頭の隅にはそれが消えることはなかったと言うのに……。恐らくそれが変わったのは、やはりあの入金があってからだろう。何かあればすぐにでも動けると言う金銭的余裕が、心にも安らぎを与えてくれたのだ。勿論あの金には一切手を付けていない。当然だ、あれはこれから先に持っていく未来への資金なのだから。……そんな中での彼女の告白、妊娠3ヶ月と。


「凄い! シェリー! 愛してる! スゲェ! 子供だ! 俺達に――」


 余りに嬉しすぎて語彙を失って只々愛してるや凄いなどと言った言葉を連呼する。彼女もそれに合わせて「うん! 凄いよね、嬉しい!」と応えて一緒に笑ってくれる。リビングで転がったビールの小瓶も忘れてひとしきり喜びを分かち合った後、泣き笑いの彼女が「あ~、ビール溢しちゃってる」と叱られて、モップで拭き掃除をしながらも、俺はずっとニヤついたままだった。




「今度の金を貰ったら、足抜けをする」


 ベッドの中で決心した思いを彼女に告げると、抱きついた彼女の腕に力が入る。それに応えるように彼女が乗った腕を回して彼女を抱きかかえると、小さく震えた彼女の肩がゆっくり落ち着いていく。


「来週、手帳の交換日だ。その時にニックに伝える」


 そう言ってからベッドサイドのランプを消して、彼女のシーツを掛け直し、二人でゆっくり眠った。





~・~・~・~・~・~



 その日は朝からツイて無かった。会社に顔を出してみれば、上司が新人を連れて面倒を見てくれという。ジョニーはどうしたんだと聞いてみれば「朝から顔を見ていねぇ」と言われた。仕方なくそいつを連れてビルを何件か回った所で「……ジャックさん、俺にこの仕事は無理だ」と言って逃げちまう。慌てて追いかけようと思ったが、このにおいを纏ったまま表通りに出る勇気はなく、諦めてその日の仕事をなんとか終えて、事務所に戻ってみれば「残業代は出ねぇぞ、新人を潰したんだからな。……ったくまた探さなきゃなんねぇのか」と言われる始末。


「……クソッタレ。俺の所為じゃないだろうが」


 温いシャワーを浴びながら、一人愚痴っていると、彼女の微笑んだ顔を思い出す。……そうだな、もう俺だけじゃないんだ。もうすぐ家族が増えるんだ、新しい土地に行って今度こそは普通の仕事を見つけて、全部やり直す! 


 気持ちを持ち直すと、別ルートで事務所へ戻る。タイムカードを打刻して「おつかれさん」と事務員に声を掛け、会社を後にした。



◇  ◆  ◇



 郵便局には夕方を過ぎた時間もあり、人は殆ど出入りしていなかった。何時ものようにP.O.BOX私書箱に向かうと、出てきた男とすれ違う。ピッチリとしたスリーピースにハンチングも色を揃え、足元には磨き込まれた革靴のトゥが、廊下の明かりを反射しているのが見える程。思わずその男の背を追いかけて振り返るが、既に出口のドアを潜ったのか、その姿を見つける事は出来なかった。


「……ウォール街の人間か」


 昨今、アメリカの証券市場は、恐慌再来の予想が外れたお陰で、投資関連が軒並み好調だ。株価は年々上昇し続け、それに追従するかの如く物価と消費も上り調子の状況。大都市とまでは行かないこんな衛星都市部でも、規模は小さくてもそれなりのウォールストリートは存在している。いわば現代のスーツ族の頂点の様な存在、それが今のような男なのか等とぼんやり考えながら、自分のナンバーが刻印された扉に鍵を突っ込んだ。


「――!」


 扉を開けた先には、血痕がついた黒い手帳がボロボロになって置かれていた。




~・~・~・~・~・~



 閉じた目にまばゆい光が差し込んで、否が応にも目が覚める。結局あのまま酩酊し、椅子に寄りかかったまま、机に突っ伏して眠ってしまったようだった。テーブルには窓からの光が入り込んでいて、昨日の雨はいつの間にやら止んでいた。テーブルに置かれた黒い手帳に気がつくと、あぁ、さっきまでまた過去の出来事を夢見ていたのかと思い出す。手帳の中身を読んですぐ、アパートに飛んで帰ってシェリーに荷造りをさせ、中古のフォードに全てを押し込み送り出した。身重な彼女は最初抵抗したが、落ち合う場所だけ決め、必ずすぐに追いかけると抱きしめて、納得させるしか無かった。


「……あれから何日経ったんだ?」


 不意にそんな事を思い出し、日にちを数えようとしてみるが、安酒の残りの鈍痛と、濡れた服を着たまま眠ったせいで頭が重く、上手く回ってはくれない。彼女と別れた後、色々な場所を巡ってからここに来た。その時点で1ヶ月は掛かっただろう。何しろ手帳にはこう記されていたのだから。



『親愛なる相棒ジェイムスへ。済まないが緊急事態が起きちまった。2回目の取引の際、相手に残りの物の量がバレてしまった。そこで買付金額を上乗せするから、残りのブツを全て寄越せと要求が来た。もちろん最初は撥ね付けたが、無理を聞いてもらっている以上、こちらも強くは出られなかった。そこで俺は考えた。物の半分は別の人間に預けてあると。そうして半分の量を売ることには成功したが、残りの分を狙って奴らが裏で手を回した可能性がある。こうなってしまった以上、俺達は一旦姿をくらませる。事態は急を要する為と、相棒の居場所を見つけさせる訳にはいかないので、この地図の場所にお前の取り分は隠してある。古い墓地だ、正確な場所は――』


 俺はニックがどんな連中と取引していたのか知らないし、聞いていない。聞けばその分、厄介事に巻き込まれると考えたからだ。この手帳の血痕もその揉め事とやらで出来た物なんだろうと察しが付く。……結局、厄介なことにはなってしまったが。それでも何とか今回の分の金は欲しかった。それはこれから産まれてくる新しい命の為に、どうしても必要なんだ。だから危ない橋を渡ってここまで来た、来たというのに……。


「なんで、その場所に金がねぇんだ!」


 そう言ってテーブルを叩いた音と、入口のドアが壊れる音がしたのは、ほぼ同時だった。





 ここは戦前からある古い小さな墓地だ。町の人間たちにも忘れられているのか、整備も掃除もされておらず、所々にある墓碑は殆どが風化し、欠けて文字が読めないものもある。俺が居たのは、その墓地の片隅に建てられた言わば墓守の小屋。恐らくは何十年も前に建てられただろうその小屋は、床の部分は土が剥き出しのまま、壁は腰高までが石積みでそこから上は木造という、簡素な掘っ立て小屋だった。そんな8畳もない狭い小屋の中に、今は俺とそれ以外の幾人もの人間が、ひしめくように入っている。


「……探したぜジェイムス。いや、今はジャックと言うんだったか」


 小屋にある小さなテーブルを挟み、対面に座った男が低い声で話しかけてくる。彼の両脇には大柄の男が二人、彼を見据えるように立っており、ジャックの一挙手一投足をめつけていた。




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