僕の水谷

終(おわり)

僕の水谷(ぼくのみずや)

 受容の言葉を聞いた耳が、もう一度をねだる。

「え、なんて言った?」

「だから、いいよ。恋人になろう」

 そう応えた、目の前に立つ水谷みずやの学ランに当たる、春の温かな日差しは、黒色に熱を込めている。一方、僕の学ランには陽の光が届かず、冷たさが感じられた。

 高校二年生になった僕らは、高校一年生のときに出会った。水谷はクラスの中心にいるような人間だ。文化祭や体育祭、学校の行事はおろか、ちょっとしたクラスのイベントでさえ、優しいその性格で盛り上げていた、そんな人間だった。

 忘れることはなかった、高校一年生の秋休み前日。教室に残り、課題をやっていた僕に、水谷は話しかけてきた。

「日生君、だよね」

「あ、えっと」

「斜め後ろの席の水谷。初めて話すね」

「そう、ですね」

 クラスに友達がいなかった僕は、水谷を訝る目で見ていた。いわゆる「陽キャラ」を得意としていなかったが、きっとこれは自分が世間の言う「陰キャラ」だからだろう。

「急に話しかけてごめんね」

「いや、大丈夫」

「授業中、上賀屋涼成うえがやりょうせいの小説読んでたよね」

 その「上賀屋涼成」という名前を聞いて、僕の水谷への警戒心が一気にとけた。

「水谷さん、上賀屋先生知ってるの?」

「知ってるよ。俺、上賀屋涼成の書く話好きなんだよね。日生君も好き?」

「だ、大好き、叙情性が全面に押し出されていて、僕も、誰も彼もが当事者な気がしてきて、そしたら、あの先生には、僕たちが常日頃、こう見えているんじゃないかって」

 マイナーな作家の名前を聞いて、僕は我を忘れて語っていた。我に返った途端、顔が熱くなっていくのを感じる。

「ご、ごめん、上賀屋先生好きな人、初めて出会って」

「なんで謝るの? 俺、聞いてて楽しかったのに」

 水谷は笑って僕の前の席に座った。後ろを向いて僕の机に頬杖をつく。

「上賀屋涼成の小説、なにが好き?」

 そう問う水谷に僕は前のめりになり、下校時間までずっと話していたことを覚えている。

 それから、僕と水谷はよく話すようになった。上賀屋先生の新作が出れば、一週間はその話をしていたし、上賀屋先生繋がりで仲良くなったものの、それ以外の話もたくさんした。

 授業の話から家族の話、中学時代の友人の話など、会話が上手い水谷のおかげで、話は尽きなかった。

 水谷はなんでもできる生徒で、周りからはいじり半分で「優等生」と言われていた。テストの順位も一桁台で、よく課題を教わっていたし、運動もできて、バスケ部のスタメンだった。一度試合を見に行ったことがあるが、自分とのあまりの違いに落ち込むほど、水谷が格好よく見えた。

 その頃から僕は、水谷は主人公なのだ、と思うようになった。

 僕は、主人公の親友役でいい。僕は主人公じゃなくていい。

 ただ、それと同時に「もし水谷という主人公が僕のものになったら」と思う感情も湧くようになっていた。深まる仲に浮かれていた。

 だから僕は、あの日と同じように、誰もいなくなった放課後の教室で、水谷に心の柔らかいところを見せてしまった。

「水谷、好き。僕、水谷が好きだよ。君の特別になりたい」

 涙色がにじむ声色を無理やり隠す。吐露してしまったこれは、もう飲み込むことはできない。

 ああ、終わりだ。僕と水谷は、もう、親友ではいられない。

 関係の終わりが目前に迫る。

 せめて、あと少しだけ、水谷の目に映らせて。

 そう願った僕の耳に入ってきたのは、思いもしなかった言葉だった。

「俺も、好きだよ」

 水谷の発した言葉を、僕の耳が捻じ曲げて受け取ってしまったのか、と疑う。

 俯いていた自身の顔を上げ、水谷を見ると、水谷は下手な笑顔を浮かべ、頬を染めていた。

 君は、笑顔が誰よりも得意な主人公だろう?

 僕は聞き返した。

「え、なんて言った?」

「だから、いいよ。恋人になろう」

 水谷は僕の手を握り、下手な笑顔のまま小さく笑った。その手は少し湿っていて、少し冷えていた。

「日生だけなんだ。俺を『優等生』って馬鹿にしないのは」

 水谷の笑顔は、甘く歪んだままで、今までに見たことがない顔だった。

 その顔を見て、突然、心に「その先は聞きたくない」と言いたくなる感情が湧き始めた。

「それだけじゃない。俺、好きなものの話したことないんだ。周りの話だけ聞いて、周りの話に合わせて。俺のことなんて、誰も見やしない。そんな人たちの話なんて、聞きたくない」

 水谷は、握っている手を見つめている。少し震えていて、それが水谷の心情を表しているようだった。

 やめて、なにも言わないで。

「でも日生、君は違うんだ」

 顔を上げ、僕の顔を見た水谷の目は、僕がぼやけてまともに映らないほど潤んでいた。

「俺の話を、遮ることなく聞いてくれる。頷いてくれる。そんな君の話なら、聞きたい。そう思えた」

 僕の手を握る水谷の力が強くなる。

「だから、日生。俺も、君の恋人になりたい」

 その手を、僕は勢いよく振り払った。

「日生……?」

 振り払った反動で、僕の目から涙がこぼれる。今までこんなことなどされた経験がないのだろう、水谷は顔をこわばらせていた。

「なんだよ、日生」

「やめて」

 僕から告白しておいて、なんだこの言種は。なんのつもりだ。水谷も好きだと言ってくれたのに。僕は気が違えたのか。

 しかし、それ以上に「拒絶」が脳を占めていた。

「なんで、受け入れちゃうんだよ」

 振り払った自身の手を握る。おかしいほど震えていて、そこに込められる感情は、自分でも言語化できない。

「水谷は、クラスの中心の人気者だ」

 震える声色はもう隠せない。

「水谷は、なんでもできるすごい人だ」

 握りしめた手に、伸びたままの爪が食い込む。

「水谷は、主人公だ」

「日生……?」

 僕に触れようとした水谷の手を、叩くように再び振り払った。

「そんな君が僕を好き? ふざけないでよ。どうかしちゃったんじゃないの?」

 どうかしてるのは僕だろう。

 止めようと思えないほど涙があふれ、水谷の表情がまともに見られない。学ランの袖で無理やり拭い、水谷の顔を見ると、水谷は、僕の拒絶を受け止められないという顔で僕を見ていた。

「僕を好きだなんて言わないでよ。断ってよ」

 告白しておきながら、どうしてこんな矛盾したことが言えるのか、わけがわからない。でも、水谷に抱えきれない感情を抱いていた僕の口から出る言葉は止まらなかった。自身で、自身の心のとてつもなく柔らかいところを、ぐしゃぐしゃとかき回していた。

「僕の水谷は、そんなこと言わないよ」

 立っていることもままならなくなった膝が床につき、僕はうずくまった。

「僕の水谷は、僕の水谷はそんなこと言わないよう」

 嗚咽が混じる声で、水谷、水谷、と繰り返していた。

「僕の水谷で、いてよ」

 君は永遠に、僕の中で、僕のことを親友だとしか思っていない、クラスの人気者の、主人公のままでいてよ。

 春の日差しの境目が、二人をわける。

 水谷、君は、僕の中の水谷でいて。

 水谷は、うずくまる僕を置いて、教室から出て行った。

 それでいいよ。それが、僕の水谷だ。

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