第18話 おかしな屋敷


 あまりにも広大に、あまりにものどかな一本道の辺り一面は、収穫真っ盛りの麦畑が黄金色こがねいろの穂をサワサワと揺らしていた。吹き抜ける風がシシュウの鼻先を掠めると、香ばしさと青臭さを足して2で割ったような匂いがぷんと香り、シシュウは故郷でしばしば食べていたあのパン屋のことを思い出した。移動販売に努めていたあの子は、今尚お客を笑顔にしているのだろうか?


 …………。

 

 飲み込みかけた小麦の空気をいっぺんに吐き出したシシュウは頭上のハルシネへ呼びかける。


「駅からずいぶんと歩いてきたけど、大丈夫? そろそろ休憩とかしたほうが――」

「別に、平気だから」

「あ、あぁ……ごめん」

「なんで謝るの? 私は本当に…………ぅ」


 喉の奥から鳴ったようなくぐもった声を漏らしたハルシネは、ショルダーバッグを背負う方とは別の手で口元を抑えた。それから数秒程度ピタリと動きを止め、やがて魔法が解けたようにスルスルと歩き出したのだった。あくまで淡々とした調子でハルシネは言う。


「平気だから」

「いやいや……絶対体調悪いでしょ。昨日って言えるほど時間も経っていないしさ……あんなにお酒飲んだのだから……」

 

 呆れ混じりのシシュウの指摘にハルシネはキッと睨んできたが、言い返してくることはなかった。もしかしたら声を出そうとすると色々と”溢れかねない”のかもしれない。流石にそれはマズいだろうと、暫くはそっとしておこうと心の中で密かに決意する。そんなシシュウが思い返したのは、現在ハルシネが歩を進める田舎街……その影が見えてから夜汽車内で起きた出来事だった。


 駅員が座席車両を後にしてから間もなくしてハルシネは目を覚ましたが、すぐに寝台車両の方へと消えていってしまったのだ。シェーデルと顔を見合わせたシシュウが後を追うと、どこから手に入れたのだろうか? 宿泊部屋の中、ハルシネはワインボトルを真っ逆さまに傾けて中の液体を仰いでいたのだ。


 すぐにシェーデルがハルシネを取り押さえたが、その時にはもうボトルの中身は8割程度なくなっており、程なくしてハルシネはその日2度目の眠りへと気絶同然に至ったのだった。その顔の真っ赤な火照りは、サキュバスの力を使った影響なのか、それともお酒を大量に飲んだ副作用なのかはもはや分からなくなっていた。


 ………………。


 すっかりと二日酔い状態のハルシネは黒ぶちレンズの眼鏡をカチリと掛け直す。


「あなたと初めに会った時だって、私がお酒を飲んでいたなんて分からなかったでしょ?」

「え? なに、そうだったの?」

「別にもう慣れている事だから。サキュバスの力を使った日はお酒で誤魔化して…………なんでもない」


 今度はおそらく吐き気と別の理由で口元に添えられた手を下ろすと、ハルシネは小さくかぶりを振った。そのバツが悪そうな表情を見て、シシュウは思わずバッグの中から身を乗り出した。そしてその口はほとんど自動的に言葉を紡いだのだ。


「誤魔化すって、何をだよ」

「別になんでもない」

「この前の”サキュバスが怖い”って言葉に関係あったりするのか……?」

「本当になんでもないから」

「なぁハルシネ、何か悩みがあるんだったら――」

「あなたは。 ……あなたは私の、なに?」


 ハルシネに言葉を遮られることはこれで何回目だろう? 冷たく拒絶されたシシュウが初めに考えたのはそのような事で、間もなくして激しい後悔に襲われた。”テディベアの分際で”……そうやって自分を戒めたばかりだったろうに。


「……ごめん」

「……別にもういい。それより、ここが写真に載っていた住所みたい」


 小麦の風が吹き、ハルシネの黒髪が静かに靡く。レンズ越しの赤い瞳が映し出したのは、一本道から外れた小道の先……屋敷といって差し支えないほど大きな家だった。玄関口まで続くイチョウの木立ちはまだまだ青い。



 ※※※※※



「異変が起き始めたのは3週間ほど前だったはずです。その日は主人が当直で、いつもより少しだけ朝が早かったのですが……普段は寡黙なあの人が玄関で大きく悲鳴を上げたのです」


 そう言うと後ろ髪をお団子に括った女性は、膝上のティーソーサーをテーブルに下ろし、ハルシネから全身が見える位置にしゃがみ込んだ。


「あの人はこのように叫んだのです。 ”なぜ僕の靴紐がモンブランになっているのかね!?”」

「…………」

「ああ! その言葉は正しかった! いつの間にか玄関の扉が板チョコに変わり、クローゼットがビスケットに、石鹸はメレンゲ、蛇口をひねると水飴、丸椅子はカヌレ、靴べらはキャンディケインに……! 信じられないことに、エフェメル家のありとあらゆる物がお菓子になってしまったのです!」


 …………。


「マリーヌさん。そんなに声を張り上げなくても、聞こえているから」

「し、失礼しました。普段は私、劇団員をやっているもので……お恥ずかしいところを……」


 オホホと取ってつけたように笑い、マリーヌという名の女性は改めて席に座る。一方でハルシネは通された応接間全体を見渡し、間もなくして「ん」と無感情に声を漏らした。


「マリーヌさんの話が本当だったら、この部屋の家具もお菓子になっているはずだけど別に普通だね。玄関扉にも変わりはなかった」

「実は、お菓子になってしまったらそれきりではないのですよ。その……なんと言いますか……意識を逸らすと元に戻るのです」

「意識を逸らす?」

「ええ。例えば……」


 頬をすぼめながらマリーヌは部屋をキョロキョロと見渡す。そして遠慮なしにテーブルの下に顔を覗かせたところで、「ああ、例えばアレです」とそう言ったのだった。


「ハルシネさんが座るソファのそばにクッションがありますよね? ハルシネさんのカバンの近くにあるソレです。今そのクッションは――」

「うわ!? マ、マカロン!?」

「その通り! マカロンになって……今のはどなたの声でしょうか?」

「私だよ」

「ハルシネさんにしてはもっと低い声だったような?」

「私だから。少し喉が開いているだけ。 ……あとでシメておくから」

「は、はぁ……そういうことでしたら。 ――ええと、私もハルシネさんも、お話の最中にこのクッションのことなんて意識していなかったでしょう? そうやって意識から外れた物はいつの間にかお菓子に変わってしまうのですよ」


 苦笑いを浮かべつつ、マリーヌはひょいとマカロンを持ち上げると、何処からか取り出した1枚の布に包んでしまった。


「その逆で、クッションがマカロンになったことが意識から外れると、いつの間にか元に戻るのです。なので、何もしなければ無事に返ってくるのですが……それでも、私もあの人もこの現象にはほとほと参っていたところでした。とくに扉がビスケットに変わったときなんかは意識しないことの方が難しくて1週間くらいはそのままだったと思いますよ」


「なのでその道のプロの方が来て下さりとても安心しました」とマリーヌは胸を撫で下ろした。その言葉の通り、突然の訪問にも関わらず、ハルシネが愉快魔が起こした事件……“超常事件”の調査を行う魔法捜査官であることを名乗ると、マリーヌは簡単に屋敷の中へ招いたのだった。


 …………。


 ここでシシュウの中に1つの疑問が浮かぶ。それはハルシネも同じだったようで、代弁するようにマリーヌへと尋ねた。


「話を聞く限りこの屋敷から離れた方がいいと思うけど。ホテルに避難するみたいな。なぜ3週間経った今も此処に留まっているの?」

「あぁ……それは……ええとですね……」


 先ほどまで明朗に話していたマリーヌは、ここにきて歯切れを悪くした。わざとらしい程に大袈裟に目線を大きく逸らして、意味もなく頬に手をやる。


 それから十数秒後、たっぷりと時間を掛けながらマリーヌはこのように言った。


「娘が……ブランという一人娘が居るのですが……どうしてもこの屋敷から離れたがらないのですよ」


 シシュウの頭にあの写真に写っていた少女の姿がよみがえる。


 ブラン。ソレが“報われない少女”の名前らしい。

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