第6話 何も起きないはずがなく。


 出会ってから小1時間程度で謎の美女と寝食を共にすることが決定した。あまりにも都合がよすぎて陳腐な作り話のように聞こえるかもしれないが、事実なのだから仕方がない。ちなみに心のどこかでは今だにタチの悪い夢ではないかと疑っている。 ……それは自身がテディベアになったことも含めて。


 もちろん、淡い期待感が無い筈がなかった。なにせ姿形が変わろうとも、シシュウはあと少しで17歳となる健全な少年なのだ。年相応に”そういうこと”への興味がある。ゆえに……そのトレンチコートを脱ぎ、白ブラウス姿となったハルシネを見た時には、その豊満な体つきにばっちりと目を見張ってしまったのだ。


 シシュウはすぐに視線を逸らした。ささやかな罪悪感だって走った。 ……しかしそのような小さく密かな抵抗はいつまで続くだろうか? 世の中には『何も起きないはずがなく』という言葉がある。もしかすると“発情テディベア”となることは時間の問題かもしれない。


 シシュウは叫んだ。


 

「うぉぉぉぉおおおおお!!!」



 ズザザザザザザザザザ

 

 そして悶々とした思いをつれてヘッドスライディングを。間もなくして音階の規則正しい上がり下がりを繰り返していた卓上鉄琴の音色は止み、ハルシネはその手に持つバチと数取器かずとりきを机に置いたのだった。そして慣れた手つきで手元のメモ帳へとペンを走らせる。


「記録は75回。お疲れ様、タオルと水は要る?」

「はァ……はァ……お、お気持ちだけ受け取ります。その……飲めないんで物理的に」

「確かにそうだね」

「ところで、ハルシネさん……」


 今だに火照り、重い上体をどうにか起こす。その視界に映る自室の両端にはそれぞれ赤色のガムテープが貼られていた。それらの間には、自身の抜け毛がポツポツと落ちているた。シシュウはそれら光景を一瞥いちべつした後に、ベッド上に腰掛けるハルシネへ尋ねた。


「俺、シャトルランなんかやる必要……ありましたか?」

「正確な身体能力を知ることは必要。情報は大事」

「そう……なんでしょうけど」

「……まぁ私もシャトルランまでする必要なかったと思うけど」

「なかったのかよ! ……じゃなくて、なかったのですか」

「上からの指示だから。でも今の測定で最後。あなたは休憩していてもいいよ」


 適当にあしらうように述べたハルシネは、相も変わらず手元のメモへと何かを記述していく。もしかすると測定結果だけではなく、世にも珍しい(?)動くテディベアの会話や行動の記録をとっているのかもしれない。その内容には多少の興味があったが、尋ねる真似はせず、しかし行き場のない視線は自然とハルシネの方を向いていた。



 ………………。



「なに。さっきから私のことを見て。発情した?」

「してませんって! ……何というか、自分の部屋に母親以外が居ることが不思議で。ちょっと落ち着かなくて」


 曖昧に視線を外しつつシシュウがそう返すと、ハルシネは一瞬だけ手を止めた後、ペンをしおり代わりにメモ帳へ挟み込んだ。そしてベッド真向かいにある作業机に座るシシュウへと向き直ると、なんと小さく頭を下げたのだ。二つ括りの黒髪が振り子のようにわずかに前後へ揺れる。

 

「嫌な思いをさせてごめん。でも監視と調査のためだから我慢してほしい」

「え……? ああいや、別に嫌とかそういう意味で言った訳じゃなくて……!」

「そうなの? 私があなたの立場ならすごい嫌だと思うけどね」

「俺だって、知らないおっさんだったら普通に嫌ですよ。でもハルシネさんは……その……び、美人じゃないです、か」


 

 …………。

 

 …………何言ってるんだ、俺。


 

「ハ、ハルシネさん……今のはその――」

「私のことは」


 ハルシネはやはり淡々と言った。

 

「呼び捨てでいい」

「えっ?」

「“ハルシネ”でいい。あと敬語も要らない。私が堅苦しいの、苦手」

「ど、どうして急にそのようなことを……」

「別になんとなく。それにあなたもそっちの方が話しやすいでしょ?」

「いや、しかし――」

「”美人”とは、話しづらい?」


 ピシャリとさえぎられ、述べられたハルシネの言葉にシシュウは大きく咳払いをする。底が知れないというか、油断も隙もないというか……薄々は察していたがなんとも会話しづらい相手だとシシュウは改めて思った。そしてその取るに足らない肉球で自身の首裏をカリカリと掻いたのだった。


「ん゛ん゛! ……分かったハルシネ。これでいいだろう?」

「うん、それがいい」

「ならその……早速だけど1つ質問がある。その、色々あって朝は訊きそびれたことなんだけどさ……俺に魔法をかけたのは愉快魔で、その魔法を解けるのも愉快魔だけなんだよな? じゃあ……俺が元の姿に戻るには、そうしてくれって愉快魔に頼めばいいってことなのか?」


 突然の質問に答えを窮したのだろうか、ハルシネは自身の顎もとへ手の甲を当てた。それから数秒後、おもむろに古びたショルダーバッグの中から一枚の真っ赤なカードを取り出すと、ソレをこちらへと寄越したのだった。何のことだか分からず、シシュウはとりあえず目を通してみる。


 ポストカードだろうか? ツルツルな質感の硬い紙だ。その中央に描かれているのは影絵のイラストで、オオカミらしい動物の横顔だった。 ……何故だか火を吹いている。そしてそんなイラストのすぐ下には、”書いた”というより”線を組み合わせた”ようないびつな形の文字で、たった一言が添えられていた。パチクリとまばたきの後にシシュウはその言葉を読み上げる。


「『ゆかいなひとときを』 ……これは愉快魔が寄越したものなのか?」


 ハルシネがコクリと頷く。

 

「たとえば雨の代わりに飴玉を降らしたり、とある心霊スポットに出る幽霊の量を数百倍くらいにしたり、便べんのいい街道を丸ごと巨大迷路にしてインフラを崩壊させたり。誰の手にも終えない事件、“超常事件”が起きたときには必ずそのカードが見つかるの」

「な、なんだそりゃ。愉快魔は何がしたいんだよ……」

「分からない。深海も宇宙も私たちには知りようがないのと同じ。ただ1つ分かっていることは、愉快魔は気まぐれで事件を起こしてみんなを困らせて、そして飽きたら何事もなかったように勝手に元へ戻す……“稀代の最低魔法使い”ってことだよ」


 そう言葉を終える頃にはすでにハルシネは目を伏せていた。心なしか語気も強かったように思える。その様子も相まって、普段から勘の鈍いシシュウでもハルシネの言わんとしていることはさすがに理解できた。


「俺のこの身体が元通りになるのかも、全て愉快魔の気分次第ってことか」

「魔法捜査官としてあなたの身の安全は保障する。身体測定をしたこともその一環。 ……でもあなたが無事に元の姿にも戻れるのかは保障できない」

「そうか……」


 自然と落ちていった視線の先に丸っこい肉球が映る。糸のほつれも縫い目のブレもない、とても丁寧な仕上がりの肉球だ。なにせシシュウの母親の下で数年間アシスタントをした女性がきっと丹精を込めて仕立てたテディベアなのだから。その肉球をしばらくの間……もしかしたらたった数秒だったかもしれないが……見た後にシシュウはふぅと一息をついた。


 …………?


 そして、それとほぼ同時に痺れるような違和感を覚えたのだった。


「……あれ?」

「大丈夫? 体調悪い?」

「あぁ、いや。体調は大丈夫だよ。むしろいい。そうじゃなくて…………」


 そうじゃなくて。どうしようか、とシシュウの中で迷いが生まれる。自分の中でもさっぱり片付いていないこの気持ちを、他人なんかへと簡単に吐き出してしまってよいものなのだろうかと。 ……分からない。でも、秘めてしまうことは苦しいとまではいかないけれど、モヤモヤする。

 

 

 ………………。


 

「ハルシネ、あの、俺さ――」

 

 ガチャ


 突然、ドアノブを回す音が大きく鳴り響いた。バッと振り返ったシシュウは、自室の扉の先に仕事から帰宅したら母親の姿を見つける。


「ただいま〜。あらハルシネさん、ごめんなさいね~シシュウのことを任せてしまいまして〜」

「いいよ。仕事だから」

「シシュウもちゃんと良い子に〜……なんでそんなに毛が抜け落ちているの〜?」

「シャトルランしていたから」

「……意味分からない〜。怖い〜」


 苦笑いを浮かべ眉間の辺りを軽くほぐした母親は、ちょこんと座るシシュウの真横になんてことのない封筒を置いた。封の切られたソレを見て、シシュウは「んん?」と小さく唸る。


「なにこれ」

「あんた宛ての手紙よ〜珍しいわね〜」

「俺宛かよ。……つーか、なんで勝手に封を切ってるんだよ」

「その手じゃまともに開けられないでしょ〜? 中身は見てないわよ〜」

「あぁそういう……差出人は…………あれ?」


 慣れない手つきで封筒をひっくり返したシシュウ。しかし差出人が書かれているはずの裏面は隅から隅まで真っ白だった。ならばこの手紙はポストへ直接に投函されたということだ。


「……気味が悪いな」

「その手紙」

「え………ぅお」

「その手紙、今ここで開けて」


 思ったよりも近くにあったハルシネの顔に気圧けおされたシシュウは思わず了承してしまった。おそるおそるの手つきで封筒の中へと手を入れる。その手触りはツルツルで硬い質感の紙だった。それをゆっくりと取り出す。 ……間もなくしてシシュウはその眉を上げ、一方でハルシネは小さくため息を吐いたのだった。


 

 ――火を吹くオオカミが描かれたカードが机の上をふわり滑った。

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