第4話 サキュバスとテディベア

 

 見てはいけないものを見てしまった。それこそ自身の陰口現場を目撃したときの比ではない。


 例えるならそう。恩返しという名目で来訪し、借りた部屋の中で機織はたおりする女の……おっぱい。ちがうおっぱいじゃない。そうじゃなくて、純粋な好奇心で開かれてしまったという禁断の箱の中の……セックス。ダメだ全然思考が働かない。


 シシュウは激しく頭を振った。目にしてしまった光景もそうだが、先ほどから鼻腔びこうをくすぐる甘ったるい匂いに意識をき乱されやまないのだ。バクバクの心臓を握りしめ、冷たく固い壁に頭を擦りつけ……そこまでしてやっと「逃げる」という選択肢が脳裏をぎったのだった。



「ねえ」



 もっとも、それと同時にこのサキュバスと目が合ってしまった訳だが。サキュバスは遠慮なしにこちらの頭の先からつま先までを見た後に、どこかぼんやりした声で甘やかにささやいた。


「次は…………きみ? 今日なら、いいよ」

「ぇ……あっ……いや、え……?」

「うん?」


 ゆっくりとした調子で男の上にまたがっていたサキュバスが立ち上がる。すると下敷きの男は「うぅ」と弱々しくうなったが、サキュバスは気にも留めない様子だった。そして自身の裸体を一切隠そうとはせず、シシュウに向かって大きく両手を拡げたのだ。紅潮した頬にじんわりとした笑みを浮かべサキュバスは言う。


「おいで少年……夢をせてあげる」

「ご……ご……」

「ご?」

「ごめんなさい!!!」


 しかし、素っ頓狂に謝ったシシュウはきびすを返し一目散に駆け出してしまったのだった。


 

 ……それからどう帰ったのかよく覚えていない。でも気づいた時には自室のベッドに座り込んでいた。すぐに母親が訪ねてきて……それから何を話したのだったか。茶葉を買えなかったことを謝って、それで笑われた気がする。


 心が疲れている感覚があった。いや実際に疲れている。なまりのような……という表現はイマイチ想像がつかないが、山積みの本に押し潰されている感覚はあった。ため息を吐き、今だ動悸が収まらない心臓を押さえつけながらシシュウは思う。


(間近でサキュバスの”行為”を見てしまって……そもそもなんであんな時間に茶葉を買いに……ああ)


 すぐにあのテディベアの姿が思い出され、シシュウは数秒前の自分を恨んだ。追い討ちをかけるように本棚そのものが倒れ込んできたのだ。忘れようと思うほどに忘れられなくなるジレンマを知っているシシュウは、乾いた両手の平で自身の顔をこすり、ベッドに倒れ込んだ。


「寝て、起きたら……それでいつも通りだ」


 サキュバスの”行為”を見てしまった恐怖混じりの高揚感も、完成度の高いテディベアを見て感じたこの焦燥感も。決してリセットはされないけれど、起きた時にはミルクを注がれたコーヒーみたく曖昧ににじんでくれるはずだ。そんな淡い期待と一抹いちまつの不安を心の隅っこに押しやって、シシュウは強引に目を閉じた。 


 ……その日は寝付くのにひどく時間を要した。それでも最後には意識を手放すことが出来て、シシュウの体と心は無防備になったのだ。意味深な夢や金縛りなんて体験はなく、当然あのサキュバスが寝込みを襲いにくるなんてこともなく。なんの変哲へんてつもない朝が訪れた。

 

 そう、なんの変哲もない朝が。



 ………………


 ………………



 なんの、変哲もない……



 ………………


 ………………


 ………………………………。


 ………………………………?



「ん?」


 小さな声と共にシシュウは自らの首を傾ける。すると鏡の中の影も首を傾けた。 ……となると、鏡に映る影とは紛れもなくシシュウ自身ということになる。当然。

 

 …………?


 おもむろに視線を落とす。両手が映った。毛むくじゃらな両手には弾力がある肉球。手を合わせるとぷにぷにとした感触を覚えた。少なくとも人の手ではない。間違いなく。次にその手の片方を自身の顔に押し当てた。毛むくじゃらな顔が思いの外に沈み、遅れてにぶい痛みが走った。手を離してみる。すると1テンポ遅れて毛むくじゃらな顔が元の状態に膨れたのだ。その些細な状態の変化に、確かな“現実感”を覚えてしまう。


 夢ではない、と。


「なるほどな」


 

 ………………


 ………………

 

 ………………!!!



「んだよこれ!?!?!?」



 バタン!!!



 勢いよく跳躍してドアノブをひねると、薄い扉は簡単に開いた。リビングルームを駆け抜け、内階段を飛び降りるように下ってゆく。そして、まだ開店前の骨董店に母親の姿を見つけたのだ。シシュウは壁のようなその背中へと遠慮無しにしがみついた。


 またたく間に金切り声が響き渡る。


「ひやあああああああ!?」

「母さん、俺だよ! 俺! 朝起きたらクマになってたんだって! マジでどうすればいい!? どうすんのこれ!?」

「なに、なに、なに!?」

「だから! 俺だって……うわ動くな! 落ち、落ちるから! 落ちるというか吹き飛ばされるから!」


 40過ぎの母親は思いの外激しく上体を振る。別にそれで振り解かれたとて、なんて事ない話だったが、この時のシシュウにはそれを考える頭がなかった。結果、寂れた骨董店には似合わない叫び声が遠慮なしに響き渡った。母親が派手に動き回った影響で椅子は蹴飛ばされ、戸棚が大きく揺れて……特に小さな骨董品類が古いほこりとともに床を覆い尽くしてゆく。まさに阿鼻叫喚の光景がそこには広がっていた。 ……しかし、いつまでもそれが続く筈はなく。


「ぐェ」


 背後から抗いようのない大きな力が加えられ、シシュウの喉から決して故意には出ない声が漏れ出た。それから間もなくして、上下逆さまな視界が規則正しく左右へ振れていることに気がつく。どうやら右足を摘まれ持たれているようだ。


 一体誰が……? そう考える暇もなく、聞き馴染みのない1人の女性の声が聞こえてきた。


「ケイトさん、あなたに襲い掛かったぬいぐるみは捕まえたよ。もう安心し……ケイトさん? え、腰が抜けて立てない?」


 抑揚の少ない、実に平面的な女性の声だった。目の端に長い黒髪が映る。どうやら床へ座り込んだ母親に肩を貸しているようだ。そして母親が椅子にぐったり腰をかけたところで、シシュウの視界は真後ろへと回された……赤色の瞳と、ばっちり目が合う。


「悪いぬいぐるみだね。人に突然襲い掛かるなんて」


 第一印象は”デキる女性”だった。無駄にレンズの分厚い黒ぶちの眼鏡を掛け、大げさなベージュのトレンチコートを着こなしているからかもしれない。そして次に思ったことが……というか分かったことは、この女性がめちゃめちゃな美人であるということだ。


「言葉、話してたよね。何か話してみてよ」

「…………」

「どうしたの」

「……誰、ですか?」


 詰まった喉の隙間から辛うじて声が漏れ出る。まともに声が届いたのか疑問だったが、どうやら杞憂きゆうだったらしい。女性はシシュウの首元を軽く摘むと元通りに上下をひっくり返した。そしてわずかに喉を鳴らした後、起伏のない声で淡々と自己紹介をしたのだった。


「私の名前はハルシネ。職業は魔法捜査官……あなたみたいな子の尻ぬぐい専門家だよ。テディベアさん」

 


 


 

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