思考実験

@RyuAquaLooso

#1 日常 トロッコ問題について考えた

今日はトロッコ問題について考えてみました。

===トロッコ問題===

二又の線路の片方には作業員が5人、もう片方には1人います。

数秒後には暴走トロッコが5人の作業員を轢き殺すのですが、あなたは転てつ器を操作出来ます。転てつ器を引き、暴走トロッコの進路を変更しますか?

転てつ器を引いた場合、5人ではなく1人の作業員が確実に死にます。

============

という問題ですね。


まず私はこの問題を人数の問題だと考えました。

つまり、70億人の作業員と1人の作業員の時、自分ならどちらを選ぶかという話です。私は転てつ器を引く結論を出しました。

人数を減らして考えていきます。

・35億人→転てつ器を引く。

・1億人→転てつ器を引く。

・1万人→転てつ器を引く。

・5000人→転てつ器を引く。

・100人→転てつ器を引く。

・40人→転てつ器を引く。

・20人→転てつ器を引く。

・10人→転てつ器を引く。

・5人→転てつ器を引く。

・4人→転てつ器を引く。

・3人→転てつ器を引く。

・2人→転てつ器を引く。

・1人→転てつ器を引かない。

そして人数を減らしていく過程で、初期の決断(人数が多い時)ではなんなく転てつ器を引くことが出来た私も、20位から若干の躊躇が生まれ始めました。

しかし、4人でも転てつ器を引く決断をした時と、2人でも転てつ器を引く決断をした時では、あまり躊躇い具合は変わりませんでした。


 そして1人の時は転てつ器を引かない判断をしました。

なぜでしょうか、転てつ器を引こうが引くまいが、死ぬ人数は変わりません。

論理的に言えばどちらの決断でもよいはずです。

しかし1人の時に転てつ器を引くことは本能的に抑制がかかります。

抑制がかかるということは、これを基点に考えればいいはずです。


転てつ器を引く=殺人?


論理的に同じことでも、感情的には転てつ器を引くことと、引かないことは違うことだと私は認識しているから、転てつ器を引かない決断を下すのでしょうか。

つまり、不必要な殺生はしたくないのです。


ここで思いついたのが、トリアージです。

トリアージとは、医療現場において救出の見込みが高い生命に医療リソースを優先する行為のことです。言い換えると、救出の見込みが低ければ、より多くの生命を救出するために、対象の人物への医療行為を停止します。


私は、作業員が2人以上の時は、より多くの生命を救出するためにもう片方の線路の作業員を見捨てる決断を下しました。

しかし1人対1人では、トリアージではなく、選別です。つまるところ、私の好みによって人命が選別されます。

これは倫理的によくないため、転てつ器をそのまま(自然のまま)にしておくべきだと判断した(私の手が入るべきではない)のです。


結論として、その行為がより多くの生命を救うための行動であるかが分岐点なのかなと思いました。


また、似たような問題に臓器くじがあります。

臓器くじとは、健康な人間から抽選で選ばれた一人を殺して、臓器を多数のレシピエント(患者)へ分配することは許されるか? という問いです。


トロッコ問題と同様に、1人を犠牲にしてより多くの人間を救うことが出来ます。

しかし私はトロッコ問題の時とは違い、こちらには反対します。


 論理的には同じ問題に見えますが、私はこれを別の問題として考えました。

臓器くじの登場人物は、リスクが釣り合っていないという点です。

トロッコ問題では作業員は全員線路の上にいました。

しかし臓器くじではレシピエントは1人の健康な人間の遥か後ろ側に立っているのです。

レシピエント達は何もしなくてもゆるやかに死に向かっていきますが、健康な人間は臓器を提供するために即死します。

つまるところ、レシピエントには最期の時間が残されているにも関わらず、健康な人間は臓器を提供する関係上、必ずレシピエントより先に死ぬのです。(それが1秒の差だとしても、先に死ぬことに変わりはありません)


まず私はこの不平等な死までの時間が、トロッコ問題と臓器くじを分けているのではないかと考えました。

 では、もし仮にレシピエントと健康な人間(ドナー)が同時に死ぬのであれば、臓器くじを政策に取り入れてもいいのでしょうか。


少し考えてみました。

現段階では論理的にはトロッコ問題と対等な臓器くじに差を見つけることが出来ません。

強いて言えばトロッコ作業員という職業上、リスクを受け入れている存在と、健康な人間(リスクを受け入れていない存在)という差はありますが、健康な人間もある日突然死ぬ可能性はありますし、トロッコ問題では転てつ器を切り替えた先の人間は100%死ぬという前提があるので、私たちの日常的な救出作戦とは様相が違います。(作業員は線路に縛り付けられていると考えるべきです)


しかしやはり感情的には臓器くじを受け入れることは出来ません。

これについては二重結果の原則を引用し、

「人を助けるために人を殺してはならない」

で普遍的な臓器くじという問題であれば棄却できるかもしれませんが、

臓器を取り出すのにメスではなく、臓器テレポート装置により自動的に臓器の分配が行われる。直接的な殺人を行わない臓器くじに対する反論が出来ないように感じます。(臓器テレポート装置=転てつ器)


では臓器テレポート装置が我が国に導入され、私の前にその起動装置が出現した時、私はそのボタンを押すのでしょうか。ただし、自分とその家族だけはドナーに選ばれることはありません(トロッコ問題と同じ)


それでも私は押しません。作業員と健康な人間にはやはり死のリスクに対する心的準備に差があるからです。


では、心的準備が同じであればいいのでしょうか。

つまり、臓器くじに参加するドナーは、自分の意志で参加する者とします。

線路作業員は自分でその仕事を選びました。

臓器くじに参加するドナーも同様です。自分の意志で参加している分、死のリスクへの心的準備は線路作業員よりも高いはずです。


では先ほどの臓器テレポート装置のボタンを押すでしょうか?

ただし、参加しているドナーは全員自分の意志で参加しています。


これでも、まだ押したくありません。

なぜなら、暴走トロッコと、臓器くじ政策は、誰も望んでいない状況と、誰かが望んで作った状況という差があるからです。


誰も、トロッコが暴走することは望んでいません。起きてしまった事故に対応するために苦渋の決断を下すことと、レシピエントを優遇するための臓器くじ政策では、心理的にも状況的にも差があるからです。


では臓器から外れて、ただのくじにしてみましょう。

私の前にボタンが現れます。押さなければ2人以上の人間がランダムに死にますが、ボタンを押したら健康な人間が1人死にます。


これは大分マシですが、これでもまだ押しません。なぜならボタンを押さない側の人間がランダムなのに対し、ボタンを押す側の人間が”健康な人間”に限定されているからです。

では、全ての人間を対象にしましょう。


私の前にボタンが現れます。押さなければ2人以上の人間がランダムに死にますが、ボタンを押したらランダムに選ばれた1人の人間が死にます。


私は押します。

ここでようやく結論が出ました。

既存の臓器くじでは押さないのに、くじでは押す理由。

それは、全ての人間を平等に扱っているという点です。

 臓器くじではレシピエントを優遇していました。本来、病気であっても健康であっても人間としての権利は同じなはずです。

しかし臓器くじという特殊なシステムに呑まれ、基本的な前提を忘却してしまいました。


つまり、死ぬ運命にあった者を助けるために、生きる運命にあったものを死なせることは、許容されるものではないということです。

生きる運命にあった者は死ぬ運命にあった者より上位の存在ではありません。


全ての命は平等なのです。

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