「この守る人々も弓矢を帯して」の解釈の可能性

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かの十五日、司々つかさづかさおほせて、勅使、少将高野大国といふ人を指して、ろくの司あはせて二千人の人を、竹取が家につかはす。家にまかりて、ついの上に千人、屋の上に千人、家の人々多かりけるに合はせて、空けるひまもなく守らす。ばん

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 いよいよかぐや姫の迎えが天から来るというその夜、かぐや姫を失う悲しみに打ちひしがれる翁に同情したかどは、それらを追い払うよう二千人の護衛を翁の家に派遣。ついすなわち屋敷を巡らす土塀の上に千人、屋根の上に千人というものものしい守りを固めた。

 引用は、最も信頼できると思われる写本(残念ながら、物語の原文あるいは原本は残されていない)である『古活字十行本』を基本テキストとする『新版竹取物語』室伏信助(角川文庫)(以下『新版』と呼ぶ)に従っている。

 ここで問題にするのは傍点部分であるが、ざっと口約するとこうなる。

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この守る人々も弓矢を携え控えており、屋敷の内には、女たちが番に控えていて守らせた。

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 まず「この守る人々」とは誰のことかであるが、前出の「家の人々」であるというのが定説である。二千人の護衛はもちろん、家の人々も弓矢で武装していたということをまず言っているというわけである。

 しかし、これははなはだ疑わしい。後で問題にするが、なぜ「この家の人々」と言わずに「この守る人々」なのであろうか。

 ともあれ、今は定説に従っておこう。

 さて、次である。家の中では女たち、すなわちかぐや姫の侍女をはじめ、家に仕える者の女房たちであろうが、その女たちに「ばんにをりて」守らせたとある。

 この「番にをりて」とはどういうことなのか、かなり不可解なのである。『新版』では「当番としてじっとすわって」と訳している。この場合の「当番として」というのがどういうことか解しかねるが、それより「じっとすわって」かぐや姫を守るという行為が本当に行われたのかどうかを私は疑う。

 なぎなたなど女性のたしなみとなったのは江戸時代で、平安時代の雅な女性が武器を持つことは考えられないのではなかろうか。文字通り「じっとすわって」かぐや姫を守る「人の楯」になったというのであろうか。

 二千人に加え、家に仕える少なからぬ男たちが守っているのであるから、丸腰の女たちのこうした犠牲的行為は必要性が薄く、また、女性を守る立場の男たちがこれを許したはずがないと思うのである。

 この従来の解釈は、はなはだ肯きがたい。

 

 実は、この傍点部は、『古活字十行本』の通りではない。つじつまが合うように調整されているのである。

 『古活字十行本』のこの部分を、変体仮名を現代かなに直して次に示す。

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此守る人々も弓矢をたいしてやの内には女とも番にりてまもらす

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 傍点部前者「おも」を「をり」の、後者「お」を「を」の誤写として『新版』は処理しているのである。

 前者「おも」については解説書によってはそのままにし「おもや」すなわち「おも屋」としているものもある。しかし、「母屋」の中古の用例は「もや」であるとするのが一般的で、「おもや」説に否定的であり、誤写説の根拠とされている。

 また、後者「お」を「を」の誤写とするのは、『古活字十行本』をテキストとするすべての解説書の一致するところであるようだ。

 「おる」では「る」の意になる。「番に下りて」とし、「当番につく」という意とする説もあるというが、用例が他にないらしいし、感覚的にもあやしいと言わざるをえない。

 しかし、現代人ならともかく、昔の人がこのような写し間違えをする確率は低いはずである。ましてや、「る」などという基本的な語であれば、まず考えられないのではなかろうか。誤写説を疑わざるをえない。


 『古活字十行本』通りに読めないものか。

 まるで難解なパズルを前にするような、好奇心に満ちた模索をはじめたが、未だ納得できる自説には至っていない。しかしながら、これから紹介する案は、もっとも有力なものとして自認しているものである。

 まず、最初に思いついたのは次のような解釈であった。

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この守る人々も、弓矢を帯して、おも、屋の内、庭、女ども、番にりて守らす。

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 定説に従い、「この守る人々」を前出する「家の人々多かりけるに合はせて」の「家の人々」すなわち翁の家に仕える男たちのことであるとし、この人たちが二千人の弓取りに混じって屋根の上、築地(土塀)の上にいたという設定である。護衛のプロが来たのであるから、家に仕える男たちはそこから降ろし、おも(表)、屋の内、庭、女たちを、それぞれ当番として振り分けて守らせたという内容である。

 「番におりて」の「おりて」は、屋根あるいは築地の上から「降りる」という意味になるので、『古活字十行本』どおりでつじつまが合うのである。また、「女ども」も守る立場ではなく守られる立場となる。この「女ども」は、主に、塗籠の中のかぐや姫と媼のことだろう。

 ただ、問題として「おもや」が残った。すでに述べたように、「母屋」は「もや」であって、「おもや」の用例は中古にはないという。この解釈では、まだこの問題を解消できない。

 そこで、「おもやの内」を「おも、屋の内」とさらに分解し、「おも」を「面」として、家の正面(おもて)とする仮説をたててみた。

 以上、まあ自説としてはひとまず形を得たとして、しばらくほったらかしにしていたのだった。


 しかし、その後、「この守る人々」とは本当に翁の家に仕える男たちのことなのだろうか、という疑問を素通りすることはできないと感じたのである。

 「家の人々多かりけるに合はせて」と前出があるからといって、この「人々」が「この守る人々」の「人々」であると決めつけられるだろうか。「この守る人々」とは、二千人の護衛と家の男たちを合わせた「人々」であると考える方が明らかに自然ではなかろうか。

 しかし、この自然な考え方ではこの文は通りにくい。いや、通らない。

 「この守る人々も弓矢を帯して」と「も」を用いているが、二千人の護衛が弓矢を所持していたのは当然である以上、「この守る人々」はそれ以外の「人々」に特化されなければならないからである。

 それでは「この守る人々」という文に問題があるのでは、と智慧を振り絞って得た解釈は、自分自身「はっ」とするものだった。

 「この守る人々」の「守」は『古活字十行本』通り漢字であるが、「守る」を「まもる」と一度仮名に直してみると、そこに「る」という解釈が見えたのである。

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このる人々も、弓矢を帯して、おも、屋の内、庭、女ども、番にりて守らす。

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 この文の直前は「空けるひまもなく守らす」とある。屋根や土塀の上には隙間なく人がぎっしりである。この隙間から洩れる人もあったであろう。つまり、屋根や土塀に乗りきれなかった人々である。それらの人々も、下に降りて弓で守らせたという解釈である。

 『古活字十行本』も写本である限り、書写する者の解釈で仮名を漢字に当てた部分もあることは十分考えられる。

 しかし、「この間洩る」は言葉足らずかもしれない。この意味なら「この間に洩る」と書きそうである。ことによると、「このまにもる」を『古活字十行本』以前の書写者が解釈しきれず、「に」をえんとして「このまもる」と改めてしまったのかもしれない。この可能性は否定できないと思うが、空想にすぎないという非難は免れまい。

 ともあれ、この解釈は私の中では一番有力な案なのである。

 考えてみれば、「この守る人々」が家に仕える男たちだとすると、「守らす」と使役で結んでいるのは不自然なのである。使役の主体すなわち守らせた者は少将高野大国という人だろう。そうすると、翁の家の男たちは部下ではないから、使役を使うのは不自然なのである。「この間、洩る人々」であれば、家の男たちに限定されないから使役は通る。

 このことからも、これはかなり完成度の高い案であると自ら任じてはいる。


追記

 別文、『「女」=「媼」についての覚え書き』で、

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このる人々も、弓矢を帯して、おも、屋の内、庭、、番にりて守らす。

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の「女ども」について、「女」は媼のことであり、「女ども」とは「媼とかぐや姫」である可能性について論じているので一読していただきたい。これは「女ども」が完全に守られる存在になるので、私のこの新しい解釈を後押しするものになると思う。

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