「そのときひとつのたからなりける」の新解釈の試み

 


一、「くもんつかさ」の改変の問題


 『竹取物語』は平安時代前期に書かれたとされる物語であるが、当時のオリジナルは残っていない。残存するのはすべて写本である。

 写本は多数あり、それぞれ少しずつ異なる箇所がある。その中で『古活字十行本』と呼ばれる写本の元になった写本(消失している)が、多数の写本のもとになったのではないかと私は考えている。なぜなら、『古活字十行甲本』には解釈しにくい箇所があまりに多いのだ。つまり、だからこそ原本に近いという論理が成り立つと考える。わかりにくい箇所が加筆改変され、多くの異本が生じたと考えられるからである。

 そうであれば、『古活字十行甲本』をこそ尊重すべきだが、これまでの解釈は異本の解釈を取り入れることが多い。しかし、それは極力避けるべき安易な行為であると私は思う。

 特に、次の箇所は、大いに問題である。

 『古活字十行甲本』に漢字をあて、読みやすいよう送りがなと点丸を補った形で示す。ただし、問題箇所は傍点を施し、『古活字十行甲本』のとおり(変体仮名をかなに直す)に示す。

*****

かかるほどに、男ども六人、列ねて庭にで来たり。一人の男、文挟ふはさみふみを挟みて申す。「あやべのうち申さく、玉の木を作り仕うまつりしこと、五穀を断ちて、千余日に力を尽くしたること、少なからず。しかるに、ろくいまだ賜はらず。これを賜ひて、わろに賜はせむ」と言ひて、捧げたる……

*****

 これは、かぐや姫から、それを持ってきたら結婚しましょうと、それぞれ難題をつきつけられた五人のうち、庫持くらもちの段の中の一節である。

 庫持の皇子が持ってくるように言われたのは、伝説の蓬莱ほうらいの山に生えるという根は銀、茎は金、実は白玉という玉の木の枝である。この世にあるはずもないものだが、鍛冶の匠を六人雇って贋物を作らせ、かぐや姫のもとに持ってきて、あわや同衾というところまで彼女を追いつめる。ところが、いいタイミングで、玉の枝を作らせた匠たちが庭に現れ、皇子のたくらみはすべて明るみになってしまうという、まさにその場面である。

 さて、傍点部「くもんつかさのたくみ」とあるのだが、諸本は一致しない。

 それについて、岩波文庫『竹取物語』(阪倉篤義校訂)の補注から引用しよう。

*****

 古本系の新井本・似閑本など「つくも所」、平瀬本・高安本など「つくも所つかさ」とあり、他に武田本・久曾神本は「くかんつかさ」とし、大覚寺本は「くもんつかさ」に「つくもところイ」と傍書する。公文司は、国司から租税等に関して上る文書を司る役所で、ここには関係が薄い。作物所は、宮中の器具調度を製作し鍛冶などの細工をした所で、文章からはこの方が適当である。(後略)

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 つまり、「つくもところ」「くかんつかさ」など諸本一致せず、同書が採用している武藤本も「くもんつかさ」としていながら、「つくもところイ」と傍書しているという。

 『古活字十行甲本』を採用している角川ソフィア文庫『新版竹取物語』(室伏信助訳注)でさえ、「くもんつかさ」は不適として、「内匠寮たくみつかさ」を採用している。その理由として、その補注はこう言う。

*****

 内匠寮たくみつかさは中務省に属し、金銀工・玉石帯工・鋳工・銅鉄工など多数の工匠がいて、調度の製作・装飾などを行った。

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 六人の鍛冶の匠が属する部署が「くもんつかさ」では確かに不適に見える。しかし、だからといって他の役所を持ってきて、これが適しているからとそれにすげ替えるということが果たして許されるのだろうか。『古活字十行甲本』を尊重する立場から言えば、これは公然とした改竄と言うほかない。

 「おかしい」と思われる箇所だからこそ改変が起こるのである。つまり、すでに述べたように、「おかしい」箇所があるからこそ原本に近いという論理になる。「おかしい」のは見かけ上のものであって、他に何か原因があるからではないかと探るべきが筋ではなかろうか。

 その探るべき原因について、私の説をこれから述べたい。



二、違和感のある箇所


 「かかるほどに、男ども六人、列ねて庭に出で来たり」から始まる先に引用した箇所は、違和感を禁じ得ない箇所である。

 その違和感のほとんどは、ある一文に由来している。

 それは、この引用より前、庫持くらもちの皇子が匠たちを雇った箇所である。後でこの箇所を、前後の文脈の中で詳しく検証することになるが、今はその箇所のみを示すだけにしておこう。

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かねて事、皆仰せたりければ、その時ひとつの宝なりける鍛冶匠六人を召とりて……

*****

 つまり、「その時ひとつの宝なりける」すなわち国宝級といわれた鍛冶の匠を六人雇ったというのである。この一文をふまえて、次のような違和感が私の中に生じるのであるが、どうであろう。


① 文挟みに訴状をつけて六人の匠が直訴するのだが、彼らが国宝級の人々であるなら、それなりの身分であろうはずなのに、なぜこのような身分の低い者のするようなへりくだったまねをするのだろうか。他に訴えようがあったはずではないか。


② 「しかるに、禄いまだ賜はらず。これを賜ひて、わろに賜はせむ」と言うが、「悪き家子」の「悪き」とは、ここでは「貧しい・衰えた」の意味であろう。国宝級の人々がそれほど貧しいのだろうか。


 また、これらの違和感は、そのあと、かぐや姫が読むその訴状の内容にも、いよいよ増して表れるのである。

*****

皇子の君、千日いやしき匠らと諸共に同じ所に隠れ居給ひて、かしこき玉の枝をつくらせ給ひて、つかさも賜はむとおほせ給ひき。これをこの頃案ずるに、おつかひとおはしますべきかぐや姫の要じ給ふべきなりけりと承て、このより賜はらむ。

*****

③ 国宝級の匠自身が「いやしき匠ら」と言っている。これは匠自らの謙遜だろうか。また、皇子が「つかさも給はん」と約束したと言っているが、国宝級の匠ならば「つかさ(官位)」はすでにあったのではなかろうか。約束したのは、もっとよい官位のことだろうか。


 以上、三点であるが、ここで、訴状を持った漢部内麻呂という人だけが国宝級の腕前の人で、あとの五人はその徒弟と考えれば、この問題はある程度解消するかに見える。現行の解釈は、まずこの考え方であろう。それは、②における「悪き家子」の「家子」について、「弟子」という意味合いがあり、それがこの考え方を後押しするのである。

 しかし、「その時ひとつの宝なりける鍛冶匠六人を召とりて」という文からは、六人とも国宝級の匠だったとしか読み取れないということは事実である。一人が国宝級の匠で、後の五人はその徒弟であったという細かな説明は省いたと考えられなくもないが、「その時ひとつの宝なりける鍛冶匠とその家子五人を召とりて」と、大した労もなく表現できたはずだと考えると、やはりうなずき難い。

 いずれにせよ、代表者だけが国宝級の匠であったとしても①の違和感は消えない。国宝級の匠が、訴状を文挟みなどで差し出すまねをするだろうか。

 また、②の違和感にしても、国宝級の匠の徒弟がそれほど貧しいとは思えない。その意味で、③における「いやしき匠ら」というのもやはり変である。この「いやしき」とは、皇子に対しての相対的な意味で使われたのではなく、当時の身分制度の中での「賤民」の意味と取る方が自然である。

 ここで結論から言えば、実は「ひとつの宝なりける鍛冶匠六人を召とりて」という文の中に、全ての疑問を解決する、あるいはそれを発生させた原因があったとするのが私の説なのである。



三、違和感の払拭の試み


 では、まず、その「ひとつの宝なりける鍛冶匠六人を召とりて」の一文について、前後の文脈から観察することにしよう。

 庫持の皇子は計略家で、「蓬莱の玉の枝を取ってきます」とかぐや姫の家には伝えながら、朝廷や自分の家来には筑紫の国まで湯浴みに行ってくると嘘をつく。皇子は、いうまでもなく天皇の子であるから、「大海に出て玉の枝を取ってくる」などと言っても止められ、強行に及べば軟禁さえされかねない。そのための嘘であろう。「お忍びで」と言って、側近の者数名を連れただけで難波から出発するが、二、三日して漕ぎ帰り、かねてからの計画を実行に移すのである。

 次の引用の傍点部が問題箇所であるが、ここだけは『古活字十行甲本』の通りに表記し、補助的な漢字・濁点はあてない。

*****

かねて事、皆仰せたりければ、その時、たはやすく人より来まじき家を作りて、かまどを三重(※)にしこめて、たくらを入れ給ひつつ皇子もおなじ所に籠り給て、しらせ給ひたる限り十六そをかみにくどをあけて(※)玉の枝を作り給ふ。かぐや姫のたまふやうにたがはず作りいでつ。

※「三重」、「十六そをかみにくどをあけて」の解釈には自説があるが、ここでは従来の解釈に従う。

*****

 国宝級の鍛冶の匠を六人雇い、人が来ないような場所に家を作り、皇子もその中に入って、三年間も匠らと共に潜伏し、玉の枝を作らせたのである。

 贋の玉の枝ができあがると、千日の船旅から戻ったように見せかけて、かぐや姫の家に向かう計画だったのだから、三年間誰にも姿を見られてはならなかったのは当然だろう。

 ちなみに、この中で、「しらせ給ひたる限り十六そをかみにくどをあけて」についての解釈は多数あり、定説をみない難解な箇所として知られているが、ここでは詳しくしない。

 つまるところ、ここまでの文は、皇子がいかに周到に計略を練り、隠密に事を運んだかが述べられているのである。

 しかし、ここでまた違和感が生じる。

 国宝級の鍛冶の匠を六人も(たとえ一人であったとしても)雇えば、世間は必ず怪しむだろうし、しかも三年間も行方不明の状態にしたら大騒ぎにもなりかねない。隠密に事を運ぼうとする皇子が、そんな危ないまねをするだろうか。

 この違和感を払拭する方法はただひとつである。つまり、匠らは国宝級の匠ではなかったと考えるほかない。

 次が、私のその説である。

*****

その時ひとのたからなりけるかちたくみ六人を召とりて

*****

 この中の傍点をほどこした「つ」を「都」に変えて読んで頂きたい。それは、次のように解釈できるだろう。

*****

その時、ひとみやこからなりける鍛冶匠六人を召とりて

*****

 そう、皇子は、都以外の、腕はいいが名もない匠六人を、人(側近の者)に雇わせたと解釈できるのである。

 かぐや姫の家に現れた六人の匠が国宝級の者ではなく、名もなき匠たちだったのであれば、先に示した違和感も、すでに示した①②③の違和感も払拭されよう。

 変体仮名の「都(つ)」と「都」の草書は似たもの、あるいは全く同じである。変体仮名と見るか漢字と見るかは、読み手の文脈による判断が必要である。この例は、それにより生じた希有な事故だと考えていいと思う。

 玉の枝を作るのだから腕のいい職人を雇うだろうという先入観によって、勢い「その時ひとつの宝なりける」と読まれ、「その当時国宝級の」という意味に解してしまったと考える。

 『古活字十行甲本』の書写者がそう読み違えたとは限らない。それ以前に書写が繰り返されたどこかで起こったことかもしれない。いずれにせよ、意識的な改竄ではなく、すでに言ったように、これは先入観によって起こった読み違いの事故と言ってよいだろう。



四、「申さく」の指摘


*****

かかるほどに、男ども六人、列ねて庭にで来たり。一人の男、文挟ふはさみふみを挟みて申す。「くもんつかさのたくみ、あやべのうち申さく、玉の木を作り仕うまつりしこと、五穀を断ちて、千余日に力を尽くしたること、少なからず。しかるに、ろくいまだ賜はらず。これを賜ひて、わろに賜はせむ」と言ひて、捧げたる……

*****

 さて、私のこの説が正しいとすれば、賤しい身分たる匠たちのひとりが文挟みを掲げて言った言葉、「くもんつかさのたくみ、あやべのうち申さく」は、どう解釈されるべきなのだろうか。

 「匠」となっているので、漢部内麻呂が属する部署である「公文つかさ」はおかしいというのが従来の論理であった。しかし、実は「公文つかさ」だから「匠」でよいという結論に私は至りつく。しかし、その結論に至る説明は少々複雑である。できるだけ順序立てて説明していこう。

 まず、「漢部内麻呂申さく」の「申さく」について、従来の解釈に無理があることを指摘することからはじめよう。

 「申さく」は「いはく」すなわち「曰く」の謙譲語である。「いはく」は「言うには」ということで、伝聞であり、人の言ったことを他の人に伝える場合に使われるのではあるまいか。すなわち、自分自身の発言に「いはく」は、まず使うことはあるまい。「いはく」の謙譲「申さく」を訳すとすれば、「申し上げるには」であるが、これももちろん自分自身の発言には使わないだろう。

 それにもかかわらず、これまで、この直訴状を持った匠(漢部内麻呂)みずからの発言とされ、疑問さえ呈されなかったのは、実に不思議としか言いようがない。

 いずれにせよ、頭を切り換え、漢部内麻呂が直訴状を持ってきたこの六人のうちの誰でもないのだと、まず考えてみることが必要なのである。

 おそらく六人は、まず漢部内麻呂なる人物のもとに相談に行き、かぐや姫の家で述べるべき口上と書状をあずかったと考えれば、この「申さく」の違和感も払拭できよう。この口上は漢部内麻呂自身の言葉ではあるが、訴状を持った匠がそれをそのまま伝えているのである。

 六人の匠は「国宝」などというものではなく、腕はよいかもしれないが、身分も低く教養も持たない職人であり、皇子に代金を踏み倒されて途方にくれ、漢部内麻呂なる人物を頼ったのであろう(今はこう考えるが、後に、むしろ漢部内麻呂が五人に直訴させたという考察に至る)。



五、公文所について


 これをふまえ、「くもんつかさのたくみ、漢部内麻呂」なる人物を改めて考える必要がある。

 「公文」とは、もともと公文書一般をさす言葉であった。しかし、私がインターネットなどで調べた限り、「公文司」、「公文宰」、あるいは「公文寮」など、いずれも当時の中央の役所名としては見つけることができなかった。ただ、年貢などを取り扱う地方の出先機関として「公文所くもんじょ」という名称が見えるのみであった。

 平安時代中期の十世紀後半から十一世紀にかけて、有力農民層が、租税を免除された免田を足がかりに田地の開発を進め、私有地化していった。しかし、中央から土地を没収されるおそれから、中央の有力貴族や有力寺社へその土地を寄進することで租税免除と土地支配権の確保を図り、自らは寄進先の荘園主から公文くもんなどに任命されることにより、現地管理者としての地位を保証されたという。

 公文は小作人たちの租税の管理を行うとともに、彼らからの色々な相談や苦情を受けつける立場にあったようだ。公文や下司といっても、要は地主、総領、総代、親方などであるから、農民も相談しやすかったに違いない。

 そうなると、身分賤しい五人が相談に行ったのは彼らの出身地の出先機関である公文所であったことは想像にあまりある。そして、漢部内麻呂はこの公文所の役人であったと考えられるのである。

 これらの下司や公文などを総称して荘官しょうかんと称したという。そうすると、「くもんつかさ」は、「公文官」と表記すべきではないかと考えられるが、役所名ではなく、役職名と取るべきであろう。

 三省堂『全訳解読古語辞典』(第三版)の「つかさ」の項にこうある。

*****

③役人、官吏。「近き所どころの御庄の-召して」<源氏・須磨>訳(源氏は)近くのあちらこちらの荘園の役人たちをお呼びになって。

*****

 つまり、「つかさ」は必ずしも官位だけでなく、役職名でもあったと考えられる。


 ただ、なぜ「くもんつかさのたくみ」と「匠」がつくのであるか、けっきょく問題はそこに行き着く。

 もともと、漢部内麻呂が「匠」であるので、直訴に及んだ本人と考えられていたことから、「くもんつかさ」に属するのではおかしいということで、他の部署があれこれ考えられ、書き換えが行われてきたわけである。

 私の説では、漢部内麻呂は公文官であり、同時に「匠」でなければならない。

 これは、私の説が抱える唯一の問題であると認めざるを得ない。

 しかし、この問題は、次のように想定してみることにより解決できそうなのである。

 六人の匠が選ばれたのは、鍛冶職人の集落であり、漢部内麻呂はその集落の公文(荘官)であるが、同時に集落の長であるとすれば、自らも優秀な匠であってもおかしくないのではなかろうか。

 つまり、「公文つかさ」だから「匠」でよいという例の結論に至るのである。

 ただし、この結論から一歩下がるが、「たくみ」を「たゝみ」の誤写とみて、「ただみ」すなわち「その人自身」とする自説も捨てがたく抱くものである。「公文つかさ漢部内麻呂本人が申し上げるには」となって、通りはよい。



六、新解釈によって現れる「人」の存在


 この新しい解釈により、これまではっきりしなかったことが浮かび上がってくる。

 すでに引用した部分だが、再び引用する。

*****

かねて事、皆仰せたりければ、、たはやすく人より来まじき家を作りて、かまどを三重にしこめて、たくらを入れ給ひつつ皇子もおなじ所に籠り給て、しらせ給ひたる限り十六そをかみにくどをあけて玉の枝を作り給ふ。かぐや姫のたまふやうにたがはす作り出つ。

*****

 傍点部は従来、「その時ひとつの宝なりける鍛冶匠六人を召しとりて」と解釈されてきたわけだが、「その時」と「ひとつの宝なりける」が連結することにより「その当時国宝級であったという」という意味合いを表現するとされてきたのである。

 しかし、私の「その時、ひとみやこからなりける鍛冶匠六人を召とりて」という解釈が正しいとすると、「その時」が独立して、前の「かねて事、皆仰せたりければ」にかかる事がはっきりする。そして、新たに「人」の存在が立ち現れて来るのである。この「人」とは、皇子の側近の者である。

 つまり、「その時」とは、側近の者が皇子に前もって指示を受けたその時のことをいうことになるのである。

 考えてみれば、皇子が「玉の枝を取ってきます」とかぐや姫の家に伝えて難波を出た時には、すでにこの家はできあがっていなければならない。難波を出て三日後には漕ぎ帰っているのである。たった三日で家ができあがるだろうか。家ができあがるのを待って、難波から船を出したはずである。

 このことは従来の解釈でも想像はされていただろうが、文面からははっきりと読み取ることができなかったはずである。

 都の外から名もない匠六人を雇い、家をつくり、かまどを三重にしこめたまでが皇子の側近の者があらかじめ行っていたことと考えられる。それ以後は、三日後難波から帰った皇子がそこに入るという現在の記述となるのである。

 皇子の側近の存在については、皇子が難波を出港するとき、

*****

近う仕うまつるかぎりして出で給ひ、

*****

とあり、数人の側近がお供についていたことがわかる。これらの側近は、贋の玉の枝を作るという皇子の計略に荷担しており、当然彼らも姿を見られてはならないので、皇子とともに隠れ家に隠れていたはずである。

 ちなみに、家をつくったのも、竈を三重に作り上げたのも匠らであり、皇子が側近に命じてやらせたことだろう。皇子の隠密な行動を考えれば、他に大工や人足を雇うことはなかっただろうから。



七、「これを賜ひて、わろに賜はせむ」の重複の問題


 皇子が隠密のうちに鍛冶の匠を集めることができたのは、皇子がこの漢部内麻呂の荘園主だったからだと想像できる。つまり、開拓した土地を皇子に献上し、そのかわり漢部内麻呂は公文の役職を得て、この村を管理していたと考えられるのである。

 以下は、漢部内麻呂が書き、六人にあずけた訴状ということになる。

*****

皇子の君、千日いやしき匠らと諸共に同じ所に隠れ居給ひて、かしこき玉の枝をつくらせ給ひて、つかさも賜はむとおほせ給ひき。これをこの頃案ずるに、おつかひとおはしますべきかぐや姫の要じ給ふべきなりけりと承て、このより賜はらむ。

*****

 皇子の側近の者は、その村を訪れ、その長であり公文である漢部内麻呂に、数人の匠を貸してくれと依頼する。そして、皇子からのことずてとして、報酬だけでなく「つかさ」も授けようと約束するのである。

 ところで、この場合の報酬・つかさに関して、当然この漢部内麻呂に対してのものであろう。「つかさ」がある官位ならば、ただの職人である六人に与えられたはずはないからである。もちろん、報酬に関しては、改めて漢部内麻呂から職人に渡されることになるだろう。

 そこで、以下、

*****

「くもんつかさのたくみ、あやべのうち申さく、玉の木を作り仕うまつりしこと、五穀を断ちて、千余日に力を尽くしたること、少なからず。しかるに、ろくいまだ賜はらず。これを賜ひて、わろに賜はせむ」

***** 

と、匠たちの述べた口上で、「これを賜ひて、わろに賜はせむ」と言っているところに注目したい。

 ここは従来、問題がある箇所で、「これを賜ひて」といった後に、再び「賜はせむ」と重複しているように書かれている。この重複は、六人の匠の中に漢部内麻呂が居るという従来の考え方では解釈しきれない。

 『評註竹取物語全釈』松尾 聰著(武蔵野書院)でも、「賜はせむ」について多く疑問を呈している。

*****

 「たまはせ」は「たまはす」の未然形であるが、「たまふ」に使役の助動詞「す(下二段)」が添ったものとすると、「下さるようにさせ」ることになり、「わろきけこに賜はせむ」は「わろきけこにあなたが(禄を)下さるように私がおさせしようと思います」となって、使役的な言い方がやや失礼だということは論外としても、上の「是を賜ひて」とがやや無意味に重複するようで疑わしい。「たまはす」が一語の下二段動詞で「たまわらせる」意だとする説にいちおう従っておくが、なおはなはだ不安である。

*****

 つまり、何を言っているかというと、「たまふ」は「あたふ」の尊敬語であるから、かぐや姫主体の「賜はせむ」は使役では解釈しにくいということである。まして、「これを賜ひて」との重複の意味もわからない。

 ところが、漢部内麻呂が六人の匠の中には居ないとする私の解釈では、この問題はたやすく解けるのである。

 『四、「申さく」の指摘』で述べたように、この口上は訴状を持った匠が漢部内麻呂の言葉をそのまま伝えたものである。つまり、この言葉は漢部内麻呂自身の言葉ではあるのだ。

 「これを賜ひて、わろに賜はせむ」は「これ(報酬)を(あなたが私に)お与えになって、困り果てた家子に(私から)与えさせてくださるべきでしょう」

 つまり、最初の「これを賜ひて」は漢部内麻呂自身に対して「与えてください」と言い、「わろに賜はせむ」は、それをこの六人の匠に改めて私から「与えさせてくださるべきだ」という意味にとれるのである。

 「賜はせむ」は前に「賜ひて」を使っているので、尊敬と見るより、やはり使役と見るべきだろう。「かぐや姫が自分に対して家子に与えさせる」と取るべきと考える。


 さて、話は変わるが、皇子の側近の者が、その村を訪れ、その長であり公文である漢部内麻呂に、数人の匠を貸してくれと依頼したのであれば、この六人が漢部内麻呂のところに相談に行ったというより、むしろ漢部内麻呂がこの六人を使って直訴させたということに修正せざるをえないだろう。報酬は漢部内麻呂がもらうことになっていたのであるから。

 皇子の側近の者があらわれたとき、漢部内麻呂自身は村をあずかる身であるから、皇子と共に三年も村を留守にすることはできないので、腕のよい六人をみつくろうが、重要な仕事でもあり、褒美ももらえると聞けば、やはり差し出すのは血縁の濃い者を選ぶだろう。たとえば、分家の弟とか義弟である。

 ここで改めて問題になるのは「家子」の解釈である。従来の解釈では「弟子」の意味でとらえられていたわけだが、公文である漢部内麻呂が同時に匠であってもおかしくないのであれば、この解釈で通るだろう。

 ただし、「五、公文所について」ですでに述べたように、「たくみ」を「たゝみ」の誤写とみて、「ただみ」すなわち「その人自身」とする自説も捨てがたい。



八、「漢部内麻呂」から連想される綾部市


 「漢部内麻呂」から、京都府北部に位置する現在の綾部市が連想される。

 ウィキペディアより。

*****

地名の由来

京都府綾部は古代には丹波国漢部(あやべ)郷と呼ばれ、「綾部」(あやべ)は、江戸時代初期までは「漢部」(あやべ)と記されていた。 古代には綾織りを職とする漢部(あやべ)が居住していたとことに由来する。 漢部は朝鮮半島から渡来した漢氏(あやうじ)が支配した部(べ)であった。

*****

 また、

*****

歴史

古代

平安時代には隣接する福知山市とともに荘園が多く存在していた。

*****

とある。

 古代には綾織りを職とする漢部が居住していたとことに由来する地名で、漢部は朝鮮半島から渡来した漢氏が支配した部であり、平安時代には隣接する福知山市とともに荘園が多く存在していたという。こうした渡来系の人たちの中に、鍛冶を専門とする技術者集団があったことは容易にうかがわれる。

 作者が現在の綾部市あたりを皇子が所有する荘園のモデルとして想定していてもおかしくない。

 綾部市は京都から四十~五十キロ離れている。「その時、ひとみやこからなりける鍛冶匠六人を召とりて」は、皇子が隠密に事を運ぶために遠方より匠を雇ったことを意味しており、この距離は適当と思われる。



九、まとめとして


 最後に、直訴に及んだ匠の言葉と、その訴状の内容について改めて引用し、それに現代語訳を試み、必要な補足を加えておきたい。


●匠の口上(漢部内麻呂からの伝言)

*****

「公文つかさの匠、あやべのうち申さく、『玉の木を作り仕うまつりしこと、五穀を断ちて、千余日に力を尽くしたること、少なからず。しかるに、禄いまだ賜はらず。これを賜ひて、わろき家子に賜はせむ』」

*****

 現代語訳

*****

「公文荘官である匠、漢部内麻呂が申し上げるには、『玉の木を(皇子に)お作り申し上げたこと、五穀を断ち、千余日にわたり力を尽くしたことは、大変な苦労である。それなのに、(皇子からは)報酬をいまだ頂いていない。(あなたがかわりに私に)これをお与えになって、疲弊したわが身内であるこれらの者に(私から)与えさせてくださるべきでしょう』」

*****

 ちなみに、言うまでもないことだろうが、「申す」の謙譲「申さく」について、匠たちが上位である漢部内麻呂の言葉を尊敬「のたまはく」で引用しないのは、漢部内麻呂を匠らが翁に対して敬わせているからである(『翁はもとより貴族である(賤民は思い込み)』参照)。

 「それなのに、報酬をいまだ頂いていない」という言葉は、自分との約束が果たされていない不満を述べる漢部内麻呂自身のものと考えられる。


●訴状の内容(漢部内麻呂が書く)

*****

皇子の君、千日いやしき匠らと諸共に同じ所に隠れ居給ひて、かしこき玉の枝をつくらせ給ひて、つかさも賜はむとおほせ給ひき。これをこの頃案ずるに、おつかひとおはしますべきかぐや姫の要じ給ふべきなりけりと承て、この御屋より賜はらむ。

*****

 現代語訳

*****

皇子の君は、千日、身分賤しき匠らと一緒に同じ所にお隠れになり、立派な玉の枝を作らせなさり、官職もお与えになるとおっしゃられた。このことを近頃気がかりにしておりましたが、御側室とおなりになるかぐや姫のお求めになられるものであったのだなと気がつきまして、この家より(報酬を)頂きたい。

*****

 漢部内麻呂という公文も、中央に対して訴えるほどの力もなく、しかも皇子がらみでは訴えがたい。それで、玉の枝を贈られることになっているのがかぐや姫と知り、かぐや姫の家から報酬を取れるものならばと、おそらくだめもとで匠らに直訴をすすめたということではなかろうか。

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