背中合わせの「あした」と「きのふ」(「たちまうでく」の問題)

 『竹取物語』の中には、従来の解釈では文脈的に明らかにおかしいと思われる箇所が数か所あるが、そのほとんどが、そのことに気づかれもしないでいるようだ。これから問題にする箇所は、中でも特に違和感を持つべき解釈が平然とされてきたのである。

 『竹取物語』に不案内な人もあろううから、まず、その箇所までのあらすじから書くことにしよう。

 かぐや姫の美貌の噂を聞いて、五人の高い身分の男たちが結婚を迫った。二人は皇子、すなわち天皇の子、あとの三人は右大臣、大納言、中納言と国政を担うそうそうたるメンバーである。

 それを取ってこれたら結婚しましょうと、それぞれに課せられたかぐや姫からの難題に挑み、はかなく敗れていく五人の姿をそれぞれ滑稽に描く。

 その中で、庫持くらもちの皇子に課せられたのは、蓬莱の玉の枝である。蓬莱とは、中国の神仙思想による、東の海にあるとされる伝説の山。その蓬莱山に生える木の、金・銀・白玉でできた玉の枝を所望される。

 この皇子は計略家で、かぐや姫には海に漕ぎ出したように見せかけて、人のめったに寄りつかない場所に、あらかじめ工房を作っておいて、そこに工匠らとともに三年(後の匠らの言によれば千日)籠もって玉の枝を作らせた。

 玉の枝ができあがると、難波なにわみなとにひそかに出て、自分の屋敷に「玉の枝を取ってきた」と知らせて迎えに来させた。かぐや姫の家にも皇子が玉の枝を取ってきたという噂が聞こえ、本当に玉の枝を取ってきたのだろうかと、かぐや姫は胸がつぶれるほど不安になる。

 しばらくして、皇子は旅姿のままやってきて、かぐや姫に見せてくれと玉の枝を翁に渡す。こうなれば皇子と結婚なさいと翁は強くすすめるが、かぐや姫は部屋に籠もったまま沈鬱に頬杖をついている。皇子は、翁に問われるまま、旅の苦労話を始めるのだが、それは当然作り話である。この作り話も、皇子が三年身を潜めていた間、練りに練ったものであったに違いない。

 飢えと孤独、他国の鬼や怪物に襲われながら、出港して五百日ほどで蓬莱の山とおぼしき影を見る。山裾は金・銀・瑠璃色の水が流れ、輝く木々が繁っていて、皇子は山に登る必要もなく玉の枝を手に入れる。

*****

山はかぎりなくおもしろし。世にたとふべきにあらざりしかど、この枝を折りてしかば、さらに心もとなくて、船に乗りて、追風吹きて、四百余日になむ、まうで来にし。大願力にや。

*****

 山は限りなく興味深い。世にたとえられるものではなかったけれど、この枝を折ったならば、(かぐや姫にこの枝を早く見せたくて)ますます心が急いて、(この山にもう少し留まりたい気持ちを振りきり)船に乗り、追い風が吹いて、四百余日で帰って来られました。まさに御仏のご加護でしょうか。

 さて、この次が問題の箇所である。

*****

難波なにはより、昨日きのふなむ都にまうでつる。さらに、しほに濡れたるころもだに脱ぎかへなでなむ、たちまうで来つる。

*****

 ここは例外なく、次のように訳されてきた。

「難波より、昨日、都に来ました。まったく、潮に濡れた衣さえ脱ぎ替えないでこちらに来ました」

 この解釈のどこがおかしいのか、まず次の二つの条件から推測してみていただきたい。


①かぐや姫の家は、洛内か、洛外であっても、さほど離れた場所にはない。

 この根拠は、かぐや姫の家に五人が毎日通えたことから推測される。ただ、後にみかどが、「みやつこ麻呂(翁)が家は、山もとちかかなり」と述べるところがあり、都の近くの山裾とも考えられる。

②皇子がかぐや姫の家に着いたのは、大まかに見積もっても午後である。

 この根拠は、この皇子が持ってきた玉の枝が、それを作った報酬を求めてやってきた工匠たちの出現によって偽物と知れたとき、「かぐや姫、(日が)暮るるままに思ひわびつる心地、笑い栄えて……」と地の文が述べていることと、皇子の滞在が、せいぜい一、二時間だったことが文脈的に十分想像されることによる。


 この条件が正しいとすると、昨日都に着いたのならば、かぐや姫の家に来るまでの一夜と午前中の時間、皇子は都で何をやっていたのかという疑問が浮かばないだろうか。自分の屋敷に寄る時間もあったろうし、着替える時間も当然あったはずではないか。

 もう一度言う。昨日都に来ていたなら、歩いていくらもかからないかぐや姫の家に、どうして昨日のうちに来れなかったのだろうか。

 長い間この物語が読まれていて、そういう疑問が生じなかったのもおかしなものだと言うほかない。


 まず、この文が、何を言おうとしているのか、文脈的に探ってみたい。言い忘れていたのだが、これは皇子の作り話の締めくくりの文となる。皇子の気持ちが一番こめられているはずなのである。その皇子の気持ちとは何なのだろう。

 皇子は、蓬莱の山で玉の枝を折り取ると、いてもたってもいられず帰途につく。かぐや姫に早くそれを見せたい一心だったのだ。ほかならぬその気持ちこそが、この文にも受け継がれているはずなのである。

 ようやく難波のみなとに着いて、「潮に濡れたる衣だに脱ぎかへなでなむ、たちまうで来つる」というのはその気持ちが表れている。しかし、「難波より、昨日きのふなむ都にまうで来つる」には、事実の表記しか読み取れないというのではどうも変だ。

 すぐに気づかれることだが、この「さらに」をはさむ前後両方の文は、「なむ~まうで来つる」という全く同じかかり結びが使われている。

 「なむ~連体形」は強調の文を作り、言うまでもなく「なむ」がつけられている箇所を強調する。後の文の「脱ぎかへなでなむ」は強調の意味はわかるが、前の文の「昨日きのふなむ」は、どうして「昨日」を強調するのか、しなければならないのだろうか。従来の解釈では永遠に見えてこない。

 これまでの解釈、すなわち、昨日都に着いて、夜をどこかで明かし、改めてかぐや姫の家に向かったというのは、どう考えても変である。夜をどこかで明かすぐらいなら、自分の家に寄るだろう。難波からかぐや姫の家まで一直線に来たのでなければ絶対的におかしい。

 ならば、「難波より、昨日きのふなむ都にまうで来つる」は、「昨日、難波より(出発し)、都に向かってきました」と解釈するしかないだろう。つまり、昨日難波を出発し、夜通し歩いてきたということになる(「夜通し」と今はしておくが、後に論を進めると、驚くべき異なる結論になる)。


 日本語とはむずかしいもので、「来る」といっても、「出発した」と「到着した」の両方の意味合いがある。「まうで」は「」の謙譲語、あるいは丁寧語で(この場合、皇子がかぐや姫に対して謙譲語を使うはずはないので、丁寧語であろう)、「参上する・参る・うかがう」の意味がある。もともとの「」を見れば、「行く・来る」両方の意味があるのでわかりやすい。

 「三時にお宅に参ります」と言った場合、通常「三時にお宅に到着します」という意味だが、「わが家を三時に出発して、お宅にうかがいます」という意味に取れないこともない。日本人はこれを状況や文脈において無意識的に判断していると言ってよいだろう。

 しかし、「難波より、昨日なむ都にまうで来つる」を「難波を昨日出発して都にむかった」とする私の判断について、「来つる」と完了(過去)をあらわすので、「都にすでに来た」としか判断できないのではないかという指摘もまぬがれまい。だが、このいわゆる過去形とて、日本語は事実的な過去をあらわすだけではない。「つ」も、「来た」というただの事実としてでなく、感情を表す意味で「来てしまった」とも訳せよう。ただ過去を表すなら「し」でもよかったのではあるまいか。「つ」には、「~してしまった」というニュアンスが強い。

 たとえば、「まこと、蓬莱の木かと思ひつれ」(庫持の皇子の段)、あるいは、「玉の取り難かりし事を知り給へればなむ、勘当あらじとて参りつる」(中納言の段)など、印象深いところを例としてあげるが、これらからは「~してしまった」という感情を容易に読み取ることができるのである。

 「難波をきのう都にむかって出立してしまった。さらに、潮に濡れた衣をさえ脱ぎかえずに来てしまった」という感じに訳せば、「きのふ」がなぜ強調されるのかの意味も何となく見えてきそうにはなるだろう。とにかく、かぐや姫に玉の枝を見せたい一心で「きのう」難波を出立してしまったというのである。

 ただし、「きのう」を強調する意味はまだ不完全である。これを完全に納得する論を用意しているが、その前に少し書くことがある。


 ここで、もういちど引用文を示す。

*****

難波なにはより、昨日きのふなむ都にまうでつる。さらに、しほに濡れたるころもだに脱ぎかへなでなむ、来つる。

***** 

 傍点部「たちまうで」について、『評註竹取物語全釈』松尾 聰著(武蔵野書院)の註は次のようにある。

*****

たちまうで来つる-「立ちまう出来でく」「立ち来」の間に「まうで」が入ったものか。用例のみえぬことばで疑わしい。天正本・田中・蓬左本・大覚寺本・武田本・戸川本等は「たち」が「こち」になっている。然らば「こちらへ」の意となる。己の草体の「こ」と多の草体の「た」とは字形が酷似するから、伝写の誤は考えられる。古本は「こゝにはまうで」。島原本は「こちまうで」の五字がない。

*****

 『古活字十行甲本』で「たちまうで」となっているものが、多くの写本では「こちまうで」となっているという。それで、『古活字十行甲本』を下地にする解説書の中にさえ「こちまうで」に変えて示すものもある。しかし、『「そのときひとつのたからなりける」の新解釈の試み』で述べたように、『古活字十行甲本』は難読箇所が多いからこそ原文に近いという論理が成り立つと考えられる。ほとんどの難読箇所が『古活字十行甲本』どおりに読もうとする努力を怠り、諸写本に頼り、書き換えを行ってきてしまっているのだ。

 また、この註では、「『立ち来』の間に『まうで』が入ったものか。用例のみえぬことばで疑わしい。」と「まうでく」を疑っている。

 しかし、「まうでく」が「」の謙譲語・丁寧語であるなら、「たちまうでく」は「立ち」の謙譲語・丁寧語と考えて不思議はない。なぜ、とまどうのだろうか。この筆者も含め、『古活字十行甲本』以外の全ての写本が、「皇子が都に着いた」と思い込んでいるからに他ならない。

 「立ち」は「出立してくる」の意と古語辞典にある。まさに、皇子が「都を出立してきた」と現に書かれていたのである。「皇子が都に着いた」という思い込みが、この事実を薄暗闇に追いやってしまっていたのだ。

 改めて引用文を訳せば、次のようになるだろう。

難波なにはより、きのう、都にむかって来てしまいました。さらに、潮に濡れた衣さえ脱ぎかへずに出立してしまいました。」

 しかし、「きのふ」が、なぜ「なむ」によって強調されたのかは、まだわからない。

 それを次に明らかにしたい。


 難波から平安京まで、直線距離にして約四十キロである。道のくねりを考えても四十二キロくらいだろう。それを歩いてどれくらい時間がかかるだろうか。時速四キロとすると十時間くらい。急ぐ足なら八時間ぐらいだろう。

 そうなのである。昨夜の十二時に難波を出発しても、八時には都についてしまうのである。かぐや姫の家まで一時間見積もってもやっと九時である。午後の到着とはならないから、このままでは、私の考え方は自己矛盾に陥ってしまうだろう。

 そこで私は次のように考えてみた。

 かぐや姫の家に皇子が到着した時刻を午後三時、九時間かかったとして逆算すると、午前六時、なんとその日の「朝」なのである。

 ならば、「きのふ」は朝ではないのかと、考えてみる。そう考えなければ、この文は、解釈のいきづまりを突破できない。

 ご存じの方は多いと思うが、朝といえば、当時は「あした」と言った。しかし、今日的な使い方での明日みょうにちの意味でもある。なぜだろう。今日の「あした」(朝)を通過した時点で、「あした」と言えば、それは次の日の朝を指すからではなかろうか。

 ここで改めて気づくことは、明日とは「あした」すなわち「朝」から始まるということなのだ。つまり、一日の始まりは朝なのである。

 「一日の始まりは朝」と聞いて、別に変に思わなかった方は、ある意味正常な感覚なのだと思う。現代では、午前零時を過ぎた時点で「朝」などと称している。夜は真っ二つに分断されてしまった。時計的な一日の分割に、いわば合理化され、日の出とともに一日が始まるという伝統的感性が歪められてしまっているのではないだろうか。

 一日が朝から始まるのなら夜は二分されず、「あした」(朝)の直前まで「きのふ」ではないか。「あした」と「きのふ」は背中合わせなのではないか。日の出という明確な出来事によって背中合わせなのではなかろうか。「あした」とは日の出の瞬間、それに対し「きのふ」は本来日の出の直前を指していたのではないだろうか。

 だとすれば、皇子の言葉は次のように訳され、私としては完全に納得がいくのである。

「(かぐや姫に早く玉の枝を見せたくて)難波より、日の出を待たずに、都に向かって来ずにはおれませんでした。そのうえ、潮に濡れた衣も着替えずに出立してしまいました」

 「きのふ」が強調された意味が、これではっきりする。日が昇るのを待てずに難波を出立してしまったということを言いたいのである。


 日の出を「あした」、その直前を「きのふ」とするこの説は、今のところ何の確証もない。ただ、そうとしか考えられないという状況証拠だけであるが、古文全般を洗い直す価値はあるのではと考えている。

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