「いかゝかへり給はん空もなくおほさる」を解く

 私が『竹取物語』の研究を始めたのは四十五歳ぐらいからだったと思うが、この説はその比較的初期のものである。今、二十年あまりを経て読み返してみて、当時の私がよくぞこれに気がついたものだと我ながら感心している。私自身、この説のことを忘れかけていたほどなので、尚更そう思えるのかもしれない。

 一言で言ってしまえるほどの、さもない説である。

 しかし、これは気づきにくい。さもないことにせよ、現に、これまで誰も気がつかなかったわけであるから。

 それまで古典に何の興味も無く、辞書を片手に勉強を始めたばかりのずぶの素人に気づけて、プロの研究者になぜ気づけないのか。それはひとえに先入観がためだろう。辞書とくびっぴきの素人だからこそ、気づけたことなのかもしれない。

 前置きが長くなったが、本題に入ることにしよう。


 かどが狩りを口実に翁の家に行き、かぐや姫の部屋に押し入って、かぐや姫を強引に連れ去ろうとする。しかし、それをかぐや姫は「かたち」すなわち顔を醜く変えて見せることによって阻止するのだが、この辺のことは私説『きとかけになりぬ(影ではなく欠けか?)』を一読願いたい。

*****

御門、かぐや姫をとゞめて帰り給はむ事を、あかず口惜しくおぼしけれど、魂をとゞめたる心地してなむ、帰らせ給ひける。

*****

 非常に後ろ髪を引かれる想いで帰途に着いたのだが、輿こしに乗ってから、かぐや姫に次のような歌を送っている。

*****

帰るさのゆきもの憂く思ほえてそむきてとまるかぐや姫ゆゑ

*****

①帰りぎわ、もの憂く思われ、車を止めて振り返る、かぐや姫のために。

②帰り道がもの憂く思われるのは、連れて行くのを断ったかぐや姫のせいなのだ。

 このふたつの意味を含めた歌であるというのが通説である。

 これに対し、かぐや姫の返歌は、

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むぐらはふ下にも年は経ぬる身の何かは玉のうてなをも見む

*****

つる草の這う下(このような質素な家)に、もう何年も暮らしているこのわたしが、なんで宝石で飾った台の上(まばゆい御殿)を見る(のぼる)ことができるでしょうか。

 だいたいこのような意味だろうと思う。

 この後、

*****

これを御門、御覧じて、帰り給はむそらもなく思さる。

*****

と、御門の反応が書かれている。

 問題は、傍点部「いかが」である。


 これは、『古活字十行甲本』では「いかが」となっているが、島原本・蓬左本などの他本に従って「いとど」と書き直している解説書が現在のところほとんである。「いかゝ」の「か」の変体仮名「閑」を、「と」の変体仮名「東」の誤写と考えているようだ。

 どうしてかというと、「いかが」が係り結びを形成することと関係がある。

 しかし、その前に、「いとど」とする解説書の訳をまず書き出してみよう。「いとど」は、「いよいよ・いっそう・ますます」の意である。

①『竹取物語 全訳注』上坂信男(講談社学術文庫)

 これを帝が御覧になって、いっそう御帰還なさろう方向もわからないほどに姫のことを思っていらっしゃる。

②『竹取物語』山岸徳平(学燈文庫)

 かぐや姫の返歌を天皇はごらんになって、さらにいっそう、お帰りになるあてもないように思われた。

③『新版 竹取物語』室伏信助(角川文庫)

 これを帝が御覧になって、いよいよお帰りになろうとする当てもない思いになられる。

 「いとど」として、よく意味が通ると思いきや、どうもすっきりしない現代語訳である。

 「帰る方向もわからない」とか「帰るあてもない」とか、違和感を禁じ得ない。御門がいかに帰りたくない気持ちかを表す表現として適切かどうか疑問なのである。


 では、「いかが」について考えたい。

 「いかが」は、連体形で結ぶ係り結びを形成し、「どうして……であろうか」という疑問を作る。

 『評註竹取物語全釈』松尾 聰著(武蔵野書院)は「いかが」に疑問を呈しながらも、「いかが」のまま訳を試みているので引用したい。

*****

これを帝が御覧になって、どういうふうにお帰りになろうか、その目あてもないように自然にお感じになる。

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 これも確かに、御門の帰りたくないという気持ちを表しているが、結果は「いとど」とさして変わらず、すっきりしない。

 さらに、同書は、次のように「いかが」について疑問を呈している。

*****

「いかが」の結びの「給はむ」がそのまま「空」の連体修飾語になるのは用例上疑わしい。

*****

 これはどういうことかというと、「これを御門、御覧じて、いかが帰り給はむ空もなく思さる」の「いかが」は係り結びを形成し、連体形「給はむ」で終結するが、これがそのまま「空」を修飾するのは変ではないかというのである。


 では、やはり「いとど」の書写上の誤りと決め込むしかないのだろうか。先ほど引用したように、「いとど」にしても、納得いくような訳にはならないのである。『古活字十行甲本』を尊重し、「いかが」のまま解釈できないのであろうか。

 実は、この方法があるのである。

*****

これを御門、御覧じて、いかが空もなく思さる。

*****

 問題は、傍点部「帰り給はむ」である。

 この箇所の前後二回「帰らせ給」という最高尊敬の形であるのだが、ここはなぜ「帰らせ給はむ」ではないのだろうかという疑問から、私はここを「返り給はむ」と解釈するのである。 

 「かへり」を動詞ではなく名詞、つまり、「返り歌」の略である「返り」と考え、「給う」は「与ふ」の尊敬語とみる。

 かぐや姫の返歌を御門は見て、更に歌を返そうとしたのである。

 私の解釈で書き換えて示す。

*****

これを御門、御覧じて、いかが給はむ空もなく思さる。

*****

 傍点部を変更している。

 また、先の『評註竹取物語全釈』の指摘する疑問、

*****

「いかが」の結びの「給はむ」がそのまま「空」の連体修飾語になるのは用例上疑わしい。

*****

について、「いかが」の結びとして「給はむ」ではなく「思さる」で結ぶのではないかと考える。「思さる」は、「思す」の未然形「思さ」+完了の助動詞「り」の連体形「る」である。

 「いかが」は係り結びを形成し、連体形で終結するのだから問題ないのではないだろうか。

 新解釈を私は次のように訳したい。

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これを御門が御覧になられて、どうして歌のお返しを送られるお気持ちが(ご自分に)ないなどとお思いになられただろうか。

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 つまり、御門は、かぐや姫のこの歌に興が湧き、歌のお返しをしたいという気持ちでいっぱいになったと解釈できるのだ。

 ちなみに「そら」について、『全訳解読古語辞典』(三省堂)の名詞の項④に「(多く、打消の語を伴い)気持ち。心地」とある。


 このすぐ後、

*****

御心は更に立ち帰るべくもおぼされざりけれど、さりとて※世を明かし給ふべきにあらねば、帰らせ給ひぬ。

*****

※「世を明かし」については、自説『「あるじ」否定説 及び 「夜を明かし」否定説』を参照願いたい。

とあり、この御門の段は閉じられる。

 「御心は更に立ち帰るべくもおぼされざりけれど」に「更に」とあり、御門がかぐや姫の歌に心奪われたとすれば通りがよい。

 また、この後、御門とかぐや姫は歌を通した文通を行うわけであるが、これもなるほどとうなずけるのである。

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