「あるじ」否定説 及び 「夜を明かし」否定説

 御門みかどがかぐや姫を連れて行こうとすると、かぐや姫は素早く「影」(この従来の解釈「影」については、私説「きとかけになりぬ(影ではなく欠けか?)」を参照)になった。御門が驚いて「元に戻ってください」と頼むと、かぐや姫は元に戻る。

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御門、なほめでたく思しめさるること、せきとめ難し。かく見せつるみやつこを悦び給ふ。

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 今再び見たかぐや姫の美しさに、さらに御門はずるずると引き込まれてしまう。このようにかぐや姫に会わせてくれた造麻呂(翁)を大いに褒める。

 さて、問題はこの後の一文である。

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さて、仕うまつる百官の人々、あるじいかめしう仕うまつる。

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 「あるじ」とは、「その家の主人」という意味もあるが、この場合、「接待・ごちそう」の意味で、朝廷に仕える百の諸官に盛大にごちそうをふるまったという。

 これは、『評註竹取物語全釈』松尾 聰著(武蔵野書院)によるものだが、その註として、

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底本は「百官人々」。仮りに次に「に」を補って解いたが。語法上、「に」の省略には疑いが濃い。古本だけは「官の人々に」と「に」があるが、後人の補筆かも知れない。

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とある。

 また、「百官人々」を「百官の人に」と書き替えている解説書もあり、『語法上、格助詞「に」の省略はありえない』とし、「々」を変体仮名「」の誤写としている。「々」は、実際は「ゝ」をふたつ連ねたものであるので、なるほどありそうなことだとは思う。

 とはいえ、ここも解読上、かなりの問題箇所と見るべきだろう。


 次に、『古活字十行甲本』通りに示す。

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さて仕まつる百官人々あるしいかめしうつかうまつる。

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 これをながめるに、私は、「百官人々」が主格なら、格助詞「に」は必要ないのではないかと考えるのである。従来の解釈では、この文の主格は「翁」であろう。しかし、「翁」という文字はこの文にはない。わかりきったことだから省かれているのだという説明は十分成り立つが、「百官人々」を主格と考えるべき余地は大いにあるのではなかろうか。

 それで、この余地に踏み込んでみると、ある意外なことに気がつく。

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さて、仕うまつる百官人々、あるいかめしう仕うまつる。

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 「あるし」を「ある」と読むと、次のような訳が可能となる。「」とは「時刻」のことである。

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さて、(御門に)仕える百官の人々は、ある時刻を盛大に(御門のために)仕えている。

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 何となく、言いたいことがみえてくるようではあるまいか。つまり、御門につき従った百官の人々は、御門のために忙しい時間を割いているということを言いたいのではないだろうか。しかし、「ある時刻」では、こじつけようにもこじつけようもない。

 そこで、次の文を見てもらいたい。これは、この箇所が原文はこうだったのではないかという私の想定文である。

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さて仕まつる百官人あるしいかめしうつかうまつる。

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 つまり、『古活字十行甲文』以前の書写者が、この想定文の「百官人にん」を「百官人々」と書き改めてしまった可能性を考えるのである。

 この想定文を私は次のように解釈する。

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さて、仕うまつる百の官人、にんある、いかめしう仕うまつる。

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 これは、次のように訳せるだろう。

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さて、(御門に)つき従った多くの官人たちは、任務がある時刻、盛大(大がかり)に(御門に)つき従っている。

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 砕いて言えば、多くの官人たちは、各々公務で忙しい中、御門の気まぐれなお遊びにつきあわされていたということである。

 後で説明するが、この狩りの行幸はかぐや姫の家に寄る口実に過ぎない。しかも、御門は「にわかに日を定めて、御狩に出で給ふて」いるのである。前々から予定をしていたのではないので、百官にとっては寝耳に水であった。仕事の調整もつかず、御門につきあわされていたと考えられるのである。

 この一文の後、次のように続く。

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御門、かぐや姫を留めて帰り給はむことを、飽かず口惜しく思しけれど、魂を留めたる心地してなむ、帰らせ給ひける。

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 御門もそれがわかっていたので長居はできなかった。帰らざるを得なかった様子が見え、文脈上もすっきりするのである。

 これは私のまったくの我田引水の説だろうか。


 さて、ここで話は終わるはずだったが、実はこの自説(以後「あるじ否定説」と呼ぶ)をおびやかす箇所があることに気がついてしまったのである。

 前述の問題箇所の後、御門は仕方なく帰るのだが、未練のためだろう、御輿に乗ったあとにかぐや姫に歌を送る。かぐや姫から返歌を受け取るのだが……。

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これを、御門、御覧じて、いかが帰り給はむ空もなく思さる。御心は、さらに立ち帰るべくも思されざりけれど、さりとて、、帰らせ給ひぬ。

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 傍点部分、「夜を明かし給ふべきにあらねば」が、その箇所である。

 これによれば、御門はかなり遅くまでかぐや姫の家に居た事になる。とすれば、「あるじ否定説」はこれによりほぼ否定されるのである。「あるじ否定説」では百官たちの多忙な役目のことを考えて、御門は昼間の、それも早いうちに帰ったのでなければおかしいと考えるからである。

 しかし、私はここで逆転を試みたい。

 「夜を明かし給ふ」は、「世を空かし給ふ」ではないだろうかと考えるのである。

 とっぴょうしもないこじつけに思えるだろうか。

 確かに普通なら「夜を明かし給ふ」と解釈するのが当然である。古語辞典でも「あかす」は「(夜を)明かす」という形で動詞として固定化している。

 しかし、動詞を他動詞化する接尾「かす」により、「空く」は「空かす」にならないだろうか。

 通常、「かす」は動詞の未然形につくので、「空く」+「かす」は「空かかす」である。しかし、「おどろく」+「かす」が「おどろかかす」にならず「おどろかす」となると同じように、「空かす」となるのではないだろうか。「か」が重複する場合、ひとつは省かれる可能性は否定できない。

 「世を空かし給ふ」が成り立つとすると、

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御心は、さらに立ち帰るべくも思されざりけれど、さりとて、世を空かし給ふべきにあらねば、帰らせ給ひぬ。

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は、次のように訳される。

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お心は、絶対帰るべきだとはお思いにならなかったけれど、とはいえ天下(まつりごと)に穴を空けるわけにはいかないのでお帰りあそばした。

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 もともと、「夜を明かし給ふべきにあらねば」という解釈だと、御門がどうして夜をあかすべきでないと思ったのか動機が不鮮明であった。少なくとも私には説明できない。

 しかし、「世を空かし給ふべきにあらねば」なら、これこそ御門がどうしても帰らなければならない理由となる。

 また、当初の「あるじ否定説」とも全く呼応しており、「あるじ否定説」そのものの可能性も高めるのである。

 ただ、『古活字十行甲本』は、

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よを明し給へきにあらねは

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と「明」の漢字を用いている。もともと「あか」と仮名であったものを『古活字十行甲本』以前の書写者が「明」と漢字を当てたと考えることはできよう。常識的には「明」であるから無理からぬことである。


 以上、ふたつの説が正しいとすると、御門一行は、午前中のしかも早い時間、狩りの装束でかぐや姫の家に着き、おそらく、御門とかぐや姫を乗せるための輿こしをかつぐ者だけが家に上がり、百官たちは庭で待たせて、一時間程度で家を去り、狩りもせず御所に帰ったと、私はだいたいそのように想像している。

 かつて、翁は御門にかぐや姫を差し出すように言われ、かぐや姫をどう説得してもだめだと奏上したとき、

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「造麻呂が家は、山もと近かなり。御狩の行幸し給はむようにして、見てむや」

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と、御門が提案した際の答えとして、

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「いとよき事なり。何か、心もなくて侍らむに、ふと行幸して御覧ぜむ。御覧ぜられなむ」

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と同意している。

 「何か、心もなくて侍らむに」すなわち、「何の用意(こころづもり)もせずにおりますから」と言っていたのを思い出していただきたい。御門は、翁の家に突然立ち寄るというお膳立てをしたのである。

 百官たちに盛大にご馳走をふるまうことは、翁の財力なら可能だっただろう。しかし、前準備もせずに、それははたして可能だっただろうか。

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