きとかけになりぬ(影ではなく欠けか?)
多くの求婚者を退けたかぐや姫に興味をひかれた
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これならむと
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かぐや姫には側に仕える女たちが数人いたので、帝はその中にひときわ輝くかぐや姫を見つけることになったのだろう。
この人に違いないと、その逃げる袖を帝はつかむ。かぐや姫は顔をもう片方の袖で隠すが、帝は最初すでにその顔をよく見ていて、そのたぐいなくすばらしい容貌を知る。
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「許さじとす」とて、
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「放しはしない」と、帝はかぐや姫を連れて行こうとする。いわば略奪である。それに対しかぐや姫は、「わたくしの身がこの国に生まれたものなら、宮仕えさせていただきましょうが、とてもお連れにはなれないと思います」と、自分がこの世界に生まれた者ではないということをほのめかしながら、やや強気なことを言っている。かぐや姫は、帝の出現に別に慌ててもいなかったとみられる。
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帝、「などかさあらむ。なほ
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帝は、「どうしてできないことがあろう。やはり連れて行く」と、かぐや姫を乗せるため御輿を寄せさせると、かぐや姫は素早く「影」になったという。
従来、この「影」について、「形だけがぼんやり見えて実態がないもの」という、それこそとらえようのない解釈に甘んじている。それが実際どのような状態だったかは読者の想像にお任せしますということなのだろう。
①ホログラムのイメージ
実際「ホログラム」とはっきり唱える解説書は未だ見ないが、「形だけがぼんやり見えて実態がないもの」と解釈する限り、ホログラムのようなイメージを想像しているのに違いない。うっすらぼんやりした立体映像のようなものになり、つかんだ袖も帝はつかめなくなってしまう。確かに、これなら連れて行くのは不可能である。かぐや姫の「いと
②光球のイメージ
こういうイメージを唱える解説書もある。ある意味「形だけがぼんやり見えて実態がないもの」という曖昧な解釈から一歩進んだもので、「影」が当時は本来「光」の意味であったことによる。日影、月影と言った場合、太陽や月の姿を言う。それで、ぼんやりと光る光の玉を想像するのである。各所の記述から、かぐや姫自身、通常光を発していたとみられるので、そこからの発想でもあるだろう。
これらふたつの従来のイメージを念頭に、それに対しての帝の反応を見てみよう。
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はかなく、くちをしと
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かぐや姫が「影」になったのを見て、「はかなく、くちをし」と思ったというのだが、この帝の反応こそ、「影」がどういうものであったかを探る手がかりとなるはずだと僕は思うのである。
しかし、これが実に解釈しにくい。「はかなし」という言葉がまた曖昧なのである。そのため、従来の解釈書は十人十様である。多く引用したいところだが、次のふたつに代表させよう。
①(かぐや姫を連れて行く)努力もむなしく残念だとお思いになって
②(かぐや姫が影となったのが)あまりにもたわいなく、残念だとお思いになって
どちらかを選べと言われれば、私としては②である。なぜなら、かぐや姫の変化がどういうものであったにせよ、まずそれについて反応するはずである。連れて行けなくて残念だという気持ちがまず起こるとは思えないのである。
②のように、「あまりにもたわいなく、残念だ」という帝の反応は、ホログラムや光球をイメージすると、どうもしっくりこないような気がするのである。もし、かぐや姫がそんな姿になったなら、誰でも腰を抜かすほど驚くのではないだろうか。
その後に、「げにただ人にはあらざりけり」と思ったのだから、常人ならざる変化が起こったことは確かなのだが、それはホログラムになったり光球になったりという強烈な変化ではなかったのではないだろうか。
帝は次にかぐや姫に「もとの御かたちとなり給ひね」と頼んでいる。そして、かぐや姫はもとの「かたち」にもどるのだが、この「かたち」について言っておかなければならないことがある。
当時、「かたち」は、「形状」の意味はほとんどなく、主に人の「容貌」を指した。「かたち」だけで「美人」の意味を示す場合さえあったのである。
『竹取物語』全体で、「かたち」は九回使われていて、ここでの二回を除く七回について、すべて「容貌」(主に顔かたち)の意味で使われている。詳しく説明はしないが、それを全てここに書き出そう。
①この
②世の中に多かる人をだに、すこしもかたちよしと聞きては、見まほしうする人どもなりければ……
③かぐや姫いはく、「よくもあらぬかたちを、深き心も知らで、あだ心つきなば……
④さて、かぐや姫、かたちの世に似ずめでたきことを、帝、聞こしめして……
⑤
⑥「はや、かの
⑦「汝が持ちて
このうち④~⑦までが、帝の段に属している。このことからして、帝の「もとの御かたちとなり給ひね」の「かたち」も、実は「容貌」のことだったのではないかと考えたくなるのである。
もし、ホログラムや光球のように、全体的な変化であったなら、「もとの御すがたとなり給ひね」と、「すがた」を用いるのではないだろうか。『全訳解読古語辞典』(三省堂)の「すがた」の項に、
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「かたち」がおもに顔つきや容貌をいうことが多いのに対して、「すがた」は主として姿態・身体など全体的な容姿をいう。
とある。
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もし、この場合の「かたち」が「容貌」の意味であるとすると、では「影」はどういう意味に解すべきなのだろうか。
同古語辞典の「かげ」の項には、なんと十一項目が設けられている。①光②光によって見える物や人の姿③鏡や水面などに映る物の形や姿、などなど。その中で⑥の項に「やせ衰えたさまの形容・やつれた姿」とある。
つまり、かぐや姫は急速に美しい容貌をやつれさせたと考えることができるのである。
ホログラム説や光球説に、この、いわば「顔やつれ説」も加えてしかるべきではないだろうか。
この解釈なら、帝の反応である「はかなく、くちをしと思して」は、「(顔やつれしたことが)あっけなく残念だとお思いになって」と、この現代語訳が必要ないほどよく意味が通る。かぐや姫の容貌がすたれたのを惜しいと感じた帝の気持ちにも同情できる。また、「ただの人ではない」という帝の感想も、まるで骸骨というほど極端なやつれ方でなければ、適度だと考えられる。
この、私説「顔やつれ説」であるが、実は「きと欠けになりぬ」が、私の本説である。「欠け」が当時「醜女」を意味したかはわからないが、私はこちらの方がありうる説と考えている。
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これならむと
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かぐや姫がとっさに顔を隠したのは、なぜだろう。恥じらいからか、顔を見られたくなかったためだろうか。
かぐや姫は、帝がかぐや姫の顔を見てくるよう遣わせた内侍に対し、媼を通じて「よきかたちにもあらず。いかで見ゆべき」と言っている。おそらくは本心だろう。しかし、世間の男たちの目からは、帝が感じたような類いないほどの美人であることもこころえていたはずだ。かぐや姫の美貌の噂だけで、都中の男どもが一目見ようと翁の家にこぞってきたのであるから。
つまり、恥じらいというより、顔を見られたくなかったから袖で隠したのだろう。この世の男は自分の顔を美しいと思っている。それを見られたら、宮仕えはまぬがれないだろう。それで、とっさに顔を隠して、顔を変えたのだ。しかし、帝には一瞬でも顔を見られてしまっていたのである。
かぐや姫は地上で輪廻を繰り返すうちに多くの徳を積み、涅槃たる月の世界の、それも王女として生まれている。人の価値観は外見だけではないとこころえている。やがて、かぐや姫と帝は
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