王慶は船主で船頭ではない
『竹取物語』には原本はなく、多くの写本が存在するが、その中の『古活字十行甲文』が原文に近いとみて、それのみを研究すればよいというのが私の考え方である。
『古活字十行甲文』には解読しがたいと思われる箇所が多い。他本はそういうところを読みやすく改変している可能性がある。それゆえ、読みにくい『古活字十行甲文』が一番原文に近いと言えるのだ。実は読みにくいのではなく、読み切れていないことがそれを難解としてきた原因なのである。
そうした改変の疑いのある他本を参考にして、『古活字十行甲文』を書き換えたりするのはしてはならないことなのだ。
今回問題にする難解箇所は、『古活字十行甲文』どおりに読み込めば難解でも何でもない箇所であり、そうした意味で『古活字十行甲文』の優位性を立証するもののひとつと言えると思う。
その難解な箇所は『火鼠の皮衣』の段にある。
この段は、阿倍の左大臣がかぐや姫から所望された火鼠の皮衣を唐の商人から大金をはたいて買い取るが、本物なら焼けないはずだから火にくべてみようとかぐや姫に言われ、くべてみるとめらめらと焼けてしまったという顛末記である。
その問題に入る前にとりあえず『古活字十行甲文』のその箇所を書き出しておこう。
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左大臣阿倍のみむらじは、宝豊かに家広き人にておはしける。その
(王慶の第一の手紙)
火鼠の皮衣、この国になき物なり。音には聞けども、いまだ見ぬ物なり。世に有る物ならばこの国にも持てまうで来なまし。いと
といへり。
かの唐船来けり。小野房守まうで来て、まう
(王慶の第二の手紙)
火鼠の
といへる事を見て、「
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その問題箇所を示すために、もう一度引用する。
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左大臣阿倍のみむらじは、宝豊かに家広き人にておはしける。その
*****
「その
これは、たしかにおかしいと感じられるだろう。唐船は日本に来ていたが、すでに帰ってしまったということだろうか。
「その年来たりける唐船」の「来たりける」について、「来ている」「来ていた」どちらとも解釈できる曖昧性がある。もし「来ている」のであれば、房守はその船に乗って唐に渡ったはずなのだが、「持て到りて、かの
このことから、江戸時代の国学者、
この部分について『評註 竹取物語全釈』松尾聰(武蔵野書院)は、概ね次のように解釈する。
①唐船は筑紫に来ていたがすでに唐に戻っており、房守は別の船で唐に渡る。
②房守は金と阿倍の手紙を王慶に渡す。王慶は返事を書き、船便で阿倍のもとに送る。
③房守は王慶の手紙と火鼠の皮衣を持って王慶の船で日本に戻る。
私自身、この解釈で何の問題もないと思っていた。しかし、房守が王慶の船以外の船で唐に渡ったというのは、やや気持ちが悪いとは感じていた。
では、唐船が「来ていた」のではなく「来ている」が正しいのであれば、『古活字十行甲文』では不備があり読めないということになるのだろうか。
この問いに「否」と答えるのに私としてはそれほど時間を要さなかった。王慶はあくまで「船主」であり「船頭」ではないとすればよいのである。
つまり、王慶はあくまで船主として最初から最後まで唐に居り、日本には来ていないと考えれば、房守が王慶の船で唐に渡り、唐に居る王慶に手紙と金を渡すことに何の違和感も生じないだろう。
①房守は阿倍の手紙と金をたずさえて、筑紫に来ていた王慶が船主の唐船に乗って唐に渡る。
②房守は金と阿倍の手紙を王慶に渡す。王慶は返事(第一の手紙)を書き、船便で阿倍のもとに送る。
③房守は王慶の手紙(第二の手紙)と火鼠の皮衣を持って王慶の船で日本に戻る。
王慶があくまで船主であり唐に終始居たことは、房守が唐から戻った時の王慶の手紙の「今金五十両給はるべし。船の帰らむにつけて
おそらく、阿倍と王慶とは商いを通した旧知の仲だったのだろう。
作者の言葉足らずが誤解を招き、ここを難読箇所としてきたと言えるのではなかろうか。
さて、あっさりと問題解決してしまったわけだが、この部分における発見はそれにとどまらないのである。
これまでの論証から、房守が唐に渡った以外考えられないのだが、更にその証拠を見つけることができたのである。
王慶の第二の手紙をもう一度引用する。
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火鼠の
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皮衣のために人を手配してまで探し求めたとしている。簡単に見つかるものではないが、昔、天竺(インド)の聖者がこの唐へ持ち至り、それが西の山寺にあると聞き及んで、朝廷に許可を得て、その土地の国主に仲介をたのんで、やっと買い求めたと言っている。
問題はその後、「値の《あたひ》金少なしと国司、
傍点部「申ししかば」について、『評註 竹取物語全釈』松尾聰(武蔵野書院)は、
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「申す」は国司が使に対して卑下した(へりくだった)とみるのは穏当でないから、わうけいの阿倍のみむらじに対する丁寧語と説いておく。
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としている。「
ここにおいて松尾氏が気がついていないのだから、まだ誰も気づいていないかもしれないが、実はこの「使ひ」は房守のことであると考えて間違いないだろう。
王慶の第一の手紙に「なき物ならば
このように、房守が唐に渡ったことは間違いないことになるだろう。
また、そうなると、房守が王慶に渡した金は手数料であり、火鼠の皮衣を買う金は別に房守自身が携えていたと考えるのが妥当だろう。王慶と房守は共に国司のもとにでかけ、売買交渉をしたと考えられる。
王慶の手紙にあるように、手持ちの金では足りないと房守は国司からふっかけられる。それで王慶が不足分を自分が扱う商品で補って(「王慶が物加へて買ひたり」と「物」と言っているが金かもしれない。しかし後述する事前工作があったとすれば商品だろう)交渉は成立した。王慶は手紙で五十両を阿倍に請求している。
ここで勘のよい人なら、胡散臭いと感じることだろう。異国のこと、王慶と国司が裏で通じて値をつり上げる事前工作をするくらい簡単な事だったろうと。
と、まあ、そんなところまで想像が膨らみ、物語に厚みが増すものである。
※追記
本題とは離れるが、問題箇所として気がついたことがあるので書いておこう。
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左大臣阿倍のみむらじは、宝豊かに家広き人にておはしける。その
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問題は傍点部、「
この部分は、これまでやや曖昧に解釈されてきたと思う。「
しかし、いかに阿倍にへりくだらさせるとはいえ、物に人を「つける」という表現はいかがなものか。思うに、これは唐に派遣したのが房守ひとりと考えるからおかしくなるのではなかろうか。
すでに述べたように、房守が王慶に渡した金は手数料であり、それとは別に皮衣を購入するための並でない大金を所持していたはずだ。盗賊等に狙われかねないことを考えると、房守ひとりの渡航とは考えにくい。通訳や護衛など、それなりの一団を組んで唐に向かったのではないだろうか。
「
「つく」は「人に託す」という意味もある。
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