月の世界はどんな所か

 『竹取物語』において、月の世界がどういう所とされたのかについて考察していこう。

 とはいえ、実際、物語の中で月の世界について明確に説明された箇所は、かぐや姫の言葉による次のひとつしかない。

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かの都の人は、いとけうらにおいをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。

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 つまり、天人(月の都の人を以後こう呼ぶ)は清らかなまま老化せず、思い悩むこともないと説明される。

 誰もが憧れる素晴らしい世界に思われる。しかし、よく考えてみると、死なずに、あるいは死ねずに、思い悩むこともなく永遠に生き続けることなどできるだろうか。退屈で退屈で、しまいには気が狂うのではないだろうか。おそらくそんな疑問を持って作者が用意したのが、次のふたつのアイテムなのだ。

 不死の薬と羽衣である。不死の薬は生命を補償する。つまり食べることから解放され、経済活動からも解放される。つまり、もっと退屈で無味乾燥な世界となるのである。だが、もうひとつのアイテムである羽衣がそれを解決する。

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ふと、あまの羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほし、かなしとおぼしつる事も失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して昇りぬ。

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と、かぐや姫が月に帰る場面に書かれている。

 翁との別れを嘆き悲しんでいたかぐや姫は、羽衣を着せられた瞬間、何事もなかったように無表情になってしまったのである。

 死ぬこともなくなり、衣食が足りても、すでに述べたような退屈、あるいは人間関係の煩わしさや、人に対するうらみやねたみなど、何らかの不平不満がうまれてくるだろう。苦悩は愛や執着、怒りや悲しみなどの感情、自尊心や名誉欲などのエゴによる欲望によって生じる。それらを羽衣は全て消し去ってくれるのである。

 性欲や生殖活動はどうなのかと考えると、これもまた存在しない。愛がないのだから互いに求めることもない。愛による憎しみも生まれない。愛や快楽によって苦痛や苦悩も生じるのである。つまり愛や快楽、苦痛も苦悩もこの世界では存在しない。

 では、子供もできないし産まれないのだろうか。そもそも子供を欲する欲求がないだろう。まして、産みの苦しみなどあるはずはない。しかし、これを否定してしまうと、かぐや姫が月の世界にどうやって産まれたかの説明ができなくなってしまう。月の世界が始まった時から、かぐや姫はこの世界にいたのだろうか? いや、明らかに産まれたのである。


 作者が、仏教的な意味で、地上を、月の世界を浄土になぞらえていたのは間違いない。人は死ねば生まれ変わる永遠の輪廻を繰り返す。生まれることそのものが苦の原因であり、その輪廻を脱する方法は、その生まれ変わりの中で徳を積み重ね、もう二度と生まれ変わらないはん(浄土)生まれる他はない。仏教のこうした考え方を知っていないと、この物語はなかなか読み解けないだろう。

 かぐや姫がいよいよ月に帰らねばならない日が近づき、翁たちに自らの素性を明かした言葉。

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おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。それをなむ、昔の契りありけるによりなむ、この世界にはまうできたりける。

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 「昔の契り」があったので地上に降りたという。「昔の契り」は当然地上で交わされたものだろう。かぐや姫はかつて地上の人であり、死んで月の都に生まれ変わったとする以外にどんな考えが浮かぶだろう。

 かぐや姫は地上の人として何度も生まれ変わる中で、多くの徳を積み、とうとう涅槃たる月の世界に生まれたのだ。そして、その死に際、ある者と次の世でも必ず出会う約束をした。しかし、涅槃に生まれたからは生まれ変わることはもうないので、その約束は果たされない。かぐや姫は、その約束の相手に会うために地上に降りる決心をしたのである。

 ちなみに、かぐや姫が月の世界で悪さをして、罰として地上に堕とされたという、まことしやかに囁かれる説は否定されるべきだろう。かぐや姫は自らの意志で地上に降りたのである。まして、羽衣によって何の不平も不満も不快も起こらない世界で、どうやって罪を犯せたというのだろう。


 さて、月の世界で出産はあるのかという疑問に戻ろう。かぐや姫の次の言葉。

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月の都の人にて父母ちちははあり。片時の間とて、かの国よりまうでしかども、かくこの国にはあまたの年を経ぬるになむありける。

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 月の都に父母がいると言っている。これは月の世界でも出産はあり得るということである。しかし、一切の苦のない世界で苦しみがともなう出産などあるだろうか。

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あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。

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 物語の最初の場面である。

 かぐや姫の体は三寸(約九センチ)と非常に小さかった。天人がこのように小さな体で産まれるとすれば、妊娠、出産にともなう苦痛はないだろう。つまり、月の世界での妊娠、出産は成立するのである。

 もちろん夫婦間の肉体的交渉はないだろう。地上で十分徳を積んだ者が月の世界に生まれ変わるとき、ある霊的存在として、選ばれた天人の女の胎内に宿ると想像される。

 ちなみに、かぐや姫は月の都の王の娘、すなわち王女として生まれている。これを示すには別文を要するが、先に引用したかぐや姫が月に帰る場面の中の「車に乗りて、百人ばかり天人具して昇りぬ」の一文によってほぼ説明の用は足りるだろう。車とは「月の王とおぼしき」とされる天人が乗る「飛ぶ車」であり、かぐや姫はその王の横に座り、百人の天人を従えて帰っていったのである。

 王女として生まれたからは、地上で積んだ徳の大きさは最大級だったはずである。穢れのない月の世界に人の上下や階級があるのかという疑問はある。しかし、徳の大きな者だけが行ける世界の徳の大小であり、ある意味、あってなきがごとしの単なる形式なのだろう。

 私は最初、冷たい心の持ち主だったかぐや姫が、地上で過ごす内に人の心を取り戻したというように考えていた。しかし、それは否定されるだろう。かぐや姫は地上に降りたときから最高の人格者だったのである。もし彼女が冷たい人物として映ったなら、わざとそう見せる演技をしていたことになる。

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使はるる人も、年頃ならひて(長年一緒に居て)、立ち別れなむ事を、心ばへなどあてやかにうつくしかりつる事を見ならひて(ずっと見てきて)、恋しからむ事の堪へ難く、湯水のまれず、(翁・媼と)同じ心に嘆かしがりけり。

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 かぐや姫と別れなければならないと知った侍女の嘆きが綴られる一文だが、これがかぐや姫の本当の姿であることを作者が示したものと私は考えたい。


 さて、非常にしつこいようだが、月の世界での妊娠について続ける。何らかの霊的な生まれ変わりなら、別に母親の胎内に宿らなくてもいいわけである。しかし、これが十月十日胎内ではぐくまれると考えないと、この物語は破綻してしまうのである。

 もしかぐや姫がすでに羽衣をまとっていたら「昔の契り」など気にせず、地上に降りようなどとは決心しなかっただろう。羽衣をまとう前に地上に降りたはずである。とすれば、産まれてすぐということになろう。前世の記憶がはっきり残っており、その約束の相手が誰であるかもわかっていれば、約束はすぐに果たされ、満足して月に帰ったはずである。つまり、物語は成立しないのである。

 かぐや姫が地上に何年もとどまることになってしまったのは、その約束の相手に会えなかったからに他ならない。つまり、約束の相手はすでに死んでおり、他の何者かに生まれ変わってしまっていて、その誰かに出会うために、かぐや姫は地上滞在を自ら延ばさざるをえなかったと考えるほかないだろう。

 それで、約束の相手がすでに生まれ変わっているためには、母親の胎内での十月十日という期間がどうしても必要になるのである。たかが二百八十日程度で何が変わるかと思われるだろう。しかしここで、月の時間が地上の時間よりずっとゆっくり進むという物語の設定がものを言うのである。

 月での二百八十日が地上では二百倍の五万六千日ならどうだろう。約百五十三年である。約束の相手は死んでいるはずである。そもそも「昔の契り」の「昔の」という表現も成り立つのだ。

 月の王とおぼしき天人の言葉。

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片時のほどとて下ししを……かぐや姫は罪を作り給へりければ、かく卑しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。

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 前の引用でかぐや姫自身も言っていたように、地上に降りるのに許された時間は「片時」であった。しかし、その地上滞在が「しばし」に延びてしまったと天人は言っている。他の一文でいずれくわしくするので説明は省くが、かぐや姫の地上滞在は十二年前後と見積もられる。この十二年をして「しばし」と言っているのである。もし地上の時間が月より二百倍早く進むなら、月では二十二日しか経っていない。「しばし」も妥当と言えるだろう。

 二百倍は私の設定だが、作者もそれくらいに見積もっていたのではないだろうか。

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