第2話 走る男


 俺は走っていた。


 上着を脱ぎ捨て、それを新人ちゃんが拾い上げたのを背後の気配で感じながら、それでも一心不乱に走り続けた。


 追うは殺人の容疑者。


 酒場でケンカしたサラリーマンを公園で待ち伏せして殴り殺した凶悪犯だ。


 そいつは身軽な野郎だった。


 俺のピンポン連打のあとの突入に、びびってマンションの三階から飛び降りやがった。


 ベランダの真下は駐輪場の屋根で、そこに俺も迷うことなく飛び降りた。


 着地して地面で一回転すると、奴の姿はすでにない。


仁王頭におうず! こっちだ!」


 迷わず現場リーダーの刑事デカが指差す方角にダッシュする。


 ってか、こっちってことは、お前のほうに奴は来たんだろ? 捕まえろよ、シジイ。


 で、上着を脱ぎ捨てて、真夏の住宅街を絶賛ぜっさんもうダッシュ中ってわけだ。


 奴はガードレールや生垣いけがきをひょいひょいと飛び越えて、一向いっこうに俺との距離が縮まらない。


 クソ、俺さまの俊足しゅんそく匹敵ひってきする野郎は久しぶりだぜ。


 たしか、体育大中退後、パルクールをかじったとか捜査ファイルに書いてあったな。


 だから恐ろしく身が軽いのか。角を曲がるときに壁をれば減速しなくてすむなんて、いいことを教えてもらったぞ。


 ほら、赤信号だ、観念かんねんしろ。


 なに⁈ 道路に飛び出しやがった! 死ぬ気か⁈


 奴はクルクルと身をひるがえして走行中の車をよけて反対側にたどり着いた。

 

 なるほど。よーし、真似してやる。


 一台、けきれずにボンネットの上で一回転するはめになったが、始めてにしては上手くいったほうだろう。


 けたたましいクラクションと、ガッシャンとなにかがぶつかる派手な金属音がしたが、振り返っているヒマはない。


 あとを追って来る刑事デカたちに、後始末をよろしくと心の中で手を合わせ、なんて行儀がいいんだ俺はと自画自賛じがじさんする。


 さて、猿みたいに逃げ回る奴を捕まえる簡単な方法がある。


 それは相手の体力がきるのを待つことだ。


 ただし、一瞬でも見失うわけにはいかない。どこかで休まれでもしたら、それこそもと木阿弥もくあみだからな。


 ところで“木阿弥もくあみ”って、ぼうさんの名前だって知っていたかと新人ちゃんに聞いたら、その言葉すら知らないときたもんだ。


 ゆとり教育の弊害へいがい垣間かいま見た瞬間だったな。


 どうだ。容疑者を見失わないように走りながら、障害物を飛び越えながら、時にぶつかりそうになった歩行者に謝りながら、そんなことを考えられる俺さまの脳ミソはかしこいだろう?


仁王頭におうず!」


 また出たなジジイめ。車で並走へいそうとはいいご身分だぜ。でも、俺は大人なので素直に返事をするぞ。もちろん足は止めないままでな。


「はい!」

「対象はどこだ!」

「前です!」

「見失っていないんだな⁈」


 当たり前だろボケ。


「へい!」


 あ、へいって言っちゃった。仕方がないだろ、こっちは全速ぜんそく疾走中しっそうちゅうなんだ。


「この先はホコ天にあたる! 人混みに入る前に確保しろ!」

「へい!」


 今のはわざとだ。車で回り込んで奴を止めようともしないんだな。まあ、あんたの頭じゃ先読みなんて出来っこないか。


 ホコ天なんて言い方、歳がバレまっせ警部さんよ。


 奴め、また曲がりやがった。やはり靖国やすくに通りに出て雑踏ざっとうまぎれるつもりだな。


 んなこと、させるかー!


 俺は乳酸がまりまくった筋肉にムチを打ち、オーバーヒート寸前の心臓を、あとで警部に大盛りのアイスをおごらせてやるからと、なだめつつスピードをあげた。


 奴との距離が近づく。


 相手の疲れが見えると、俄然がぜんやる気が出るもんなんだな。


 もう少しで手が届くぞ、おりゃー! 勝つのは俺さまだぁー!


 疲れ切った猿の汗だくのシャツをつかんだ瞬間、猿は前に転倒した。


 当然、俺もおおいかぶさるように前に倒れ込む。でも、シャツは離さない。


 その結果、俺は無様ぶざまに前転して、両足が大きくくうを切った。


 あ、いい天気だなぁ〜。


 まぶしいほどの晴天せいてんはすぐに視界から消え、足になにかが当たった衝撃のあと地面に叩きつけられた。


 いて〜、なにに当たったんだ?


 そう思いつつも俺は左手でシャツをつかんだまま、素早く倒れる猿に体重を乗せて「確保かくほー!」と叫んだ。


 そして、俺の足が直接地面に叩きつけられるのを防いでくれた、なにかに目をやる。


 そこには中年の男が倒れていた。


 この真夏に上下、黒のスウェットでキャップを目深まぶかにかぶっている。


 こんな状況でなければ職質しょくしつの対象になっていても、おかしくない風貌ふうぼうだ。


 しかし、逮捕のさいに一般人に怪我けがをさせたとあれば、今年、何枚目になるのかわからない始末書を書かされるはめになる。


 俺は猿を押さえつけたまま、男に声をかけた。


「大丈夫ですか⁈」


 大丈夫だと言ってくれ。


「いたた……」


 黒ずくめの中年男は腰をさすりながら身を起こした。


 ああ、やはり、始末書……いや、怪我けがをさせてしまいましたか、ごめんちゃい。今、手が離せないから、ちょっと待ってねー。


 その時、仲間の刑事デカたちが車で追いついてきた。


 わらわらと、突然、現れた刑事や警官たちに男は度肝どぎもを抜かれたようだ。


 目を見開いたまま地面から立てないでいる。


 うん、俺だって、これだけの警官を見たら思わず逃げたくなっちまうから、一般市民なら腰を抜かすのは当然だ。


仁王頭におうず! つかまえたか!」


 見たらわかるでしょ、警部さんよ。なんで、ほかの奴らのように「さすが」「よくやった」なんて素直にめられないんだ?


 俺はボロ雑巾のような猿……もとい、容疑者を仲間に引き渡し、俺の足のクッションにしちまった黒ずくめの男に歩みより手を差し伸べた。


「申し訳ありません。お怪我けがはありませんか?」

「け、警察……?」

「あ、はい。本庁捜査一課の仁王頭におうずと申します。お怪我けがはありませんか?」


 始末書 回避かいひのために丁寧ていねいな対応を心がけ、男に手を貸して立ち上がらせると、カチンと小さな音がした。


 見ると、アスファルトの上に金色の星のようなブローチが落ちている。


「あ、落ちましたよ」


 俺はそれを拾い上げた。


「あああ、ありがとうございます……」


 男は左手で奪い取るようにそれをポケットにねじ込み、帽子のつばを下げて立ち去ろうとした。


「あの、お怪我けがは?」

「いえ、大丈夫です。それでは……」


 やった、始末書が立ち去った。なんか怪しい男だったけど、今の俺的には超ラッキー!


 その時、野太い声がビルの谷間に響き渡った。


仁王頭におうずー! てめー、署に戻ったら始末書だからなー!」


 ええ⁈ 警部、なんで⁈





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