縄とひなげし
ひなげしは、カエルによく似ている。
そう伝えたら、「なに、その突然のdis」と大きく頬を膨らませて怒りはじめた。
そういう仕草もカエルみたいなんだけど、これ以上機嫌を悪くされても面倒なので、伝えるのはやめておく。
「アタシは可愛いと思うんだけど、カエル」
体育座りの体勢で膝をきゅっと引き寄せながら、横眼でひなげしの様子を伺う。
彼女は横に広がった大きな鼻をフンと鳴らして顔をそむけた。
頬を膨らませながらも唇をツンと尖らせて、“私、気分を害しました”アピールは忘れない。
あぁ、ひなげしらしいな、なんて、変なところで感心してしまう。
ひなげしは、カエルによく似ている。
大きな頭は押しつぶされたように平たくて、幅広の大きな鼻には少しの鼻筋も見当たらない。
ぎょろりと大きい目は左右にだいぶ離れていて、正直なところ、こっそり入れてる目頭切開メイクに効果があるとは思えない。本人には言えないけど。
食べるのが趣味だと公言しているだけのことはあって、控えめに言ってもぽっちゃり、位の体型だし。
背が低くて手足も短いし、いつかカエルが二足歩行しはじめたら、それこそひなげしとカエルの区別がつかなくなっちゃうんじゃないかって、アタシは本気で心配してる。
「ひなげし、今日の数学の小テどうだった?」
「一問間違えちゃった。縄さんは?」
「……三問しかあってなかった」
「うわ、やっちゃったね」
「来週再試だよ、サイアク…… 勉強しとけば良かったぁ」
ごぼごぼと水音が響く。
ただでさえ湿度が高くて蒸し暑い時期だというのに、汚くて臭いドブ川のおかげでアタシたちの不快指数は青天井なのだ。
「ひなげし、手かして」
「んー」
ひなげしが投げやりに伸ばした手を、アタシは大事に大事に両手で包み込む。
しっとりとしていて、ひんやりと冷たくて、アタシに潤いを与えてくれるオアシスのような手。
頬ずりをすると、頭がスーッと冴えていく感じがする。
「ひなげしの手って、女の子って感じがして、好き」
「脂肪ばっかりで、指も太いのに?」
「それがいいんじゃん」
「ひどぉ」
アタシたちは揃って小さく笑う。本当に心から面白いわけじゃないけど。
そういう、コミュニケーションなのだ。円滑な、コミュニケーション。
アタシたちはいつもこの、ドブ川にかかる橋の下に隠れるようにして放課後をすごしていた。
居心地は最悪だ。
なんたって景観が悪い。もはやゴミ捨て場なのでは?と思うくらいにゴミだらけ。雑草は伸び放題、川の水に関してはいつだって濁っていて底が見えない。
そのうえ臭い。生ごみ用のゴミ箱って変なにおいがするけど、あれに泥のにおいを足した感じ。
こんなところに積極的に来ようとするヤツなんて、世界中探してもほとんどいない。
そう、誰も来ないのだ。ここには。アタシたち二人しか。
ブンブンと音を響かせながら、羽虫が周囲を飛び回っている。
これだけ臭くてゴミと雑草まみれの場所だから、羽虫くらい当然いる。不快。
何度追い払ったって、めげずに向かってくる。本当に不快。
アタシは虫って苦手な方。けど、ひなげしは意外とそうでもないみたい。
夢カワ文具とか、子供じみた丸い顔のキャラクターとか、そういう女の子らしいものばっかり持ってるクセに、虫にはカケラも動じない。
飛んでる羽虫を目で追いつつ舌なめずりをする姿を見たのは、一度や二度どころじゃない。そういうところがカエルっぽさに拍車をかけているんだと思う。
大きなハエがひなげしの指に止まった。左手の薬指。ちょうど、指輪をはめるならこの辺だろうな、っていうところ。ハエ形の婚約指輪なんて、サイアクもいいところだ。
やたらとデカいハエは、変にカクカクした動きでくるくる回る。さすがに払いのけるだろうと思っていたけど、彼女はただじっ……と見つめているだけだった。
「ひなげし、ハエも大丈夫なの?」
アタシが思わず声をかけたら、ひなげしはビクッと身体を震わせてこちらを見た。デカいハエは見た目通りのデカい羽音を響かせて飛んでいく。
「え?ハエがなに?」
「今、手に止まってたじゃん。めっっっっちゃおっきいやつ!!」
「えっ、あ、そうだった?……気付いてなかった、かも」
「すっごいガン見してたけど……もしかして、またマイワールドに入ってた?」
「……えへ、そうかも。ちょっと、考え事、してた」
「ひなげしってそうやってぼんやり考え事するの、好きだもんね。わかるわかる」
ひなげしは気まずそうにしていたけど、誰でもボーっとしちゃうことくらいある。気にしないで、という意図を込めて軽くフォローの言葉をかけておく。
そのままアタシはぐぐっと背中を伸ばして、ジャバジャバ流れるドブ川の水面に目をやった。陽が傾いてきたせいか光の反射もほとんどなくて、川はなおさら薄汚く濁って見えた。
「ちょっと暗くなってきたね。予備校の時間、大丈夫?」
アタシの言葉を受けて、ひなげしの白い指先が踊るように携帯を開いた。
高校生にもなって、ピンク色の見守り携帯だ。数百円で買える食玩の宝石ストラップがぶら下がっている。
このストラップは数週間に一度取り替えられる。ひなげしママのコダワリらしい。ストラップの紐部分が汚れて黒くなるのが許せないんだって。今日のはビビッドなピンクの羽ハート。さすが、ひなげしママは“わかってる”なぁ、と思う。
「ほんとだ、もうこんな時間」
ひなげしはスカートをはたきながら立ち上がった。プリーツ越しに大きなお尻の形が垣間見えて、なんだか愛しくなる。
落とし切れていない土汚れをお互いにバシバシ叩き合いながら、二人でだらだらと歩き始めた。
ひなげしは予備校があるけど、アタシには用事なんてない。
ただ駅前までついていって、二人でコンビニの新作スイーツをチェックして、それから一人で家に帰る。
これが二人のルーティーンだ。
「ただいま」
昔ながらの引き戸の玄関を開けると、おばあちゃんがひょこひょこと出迎えてくれる。
「お帰り。今日も遅かったのねぇ」
「まぁね。友達とコンビニで新作のスイーツ見てたの」
「あら、そうなの。花恵ちゃんはお友達がたくさんいるのねぇ」
「まぁね」
おばあちゃんは嬉しそうに顔をほころばせた。
アタシが友達に囲まれていることが、何よりも嬉しいんだそうだ。
ひなげしの家では決められた時間よりも遅く帰ると怒られるらしいけど、ウチでは逆に早く帰ると心配されちゃうから困ってる。
足が悪いんだから、毎回玄関まで出てこなくたっていいのに。アタシの胸くらいの高さにあるおばあちゃんの頭頂部が、視界の中でひょこひょこと上下に揺れるのを見るたびに思う。
何度言っても聞いてくれないから、もう諦めたけど。
家の中は夕飯の匂いで満たされていた。出汁と醤油とごま油の匂い。
メニューに多少の差はあれど、食卓に並ぶのは似たようなメニューばかり。何かの金平、何かのおひたし、何かの煮物、何かの味噌汁……。
変わり映えのしない食卓を見ながらため息をつく。
ひなげしの家では彩鮮やかなパスタとか、聞いたこともない名前のおしゃれなご飯が出るんだろうな。
アタシが食べたこともない美味しい料理に違いない。
ふと、今日ドブ川のほとりでプリーツ越しに見た、ひなげしの大きなお尻を思い出した。
茶渋がこびりついた汚いコップに麦茶を入れて、自室に戻る。
あーあ、おしゃれで可愛いマグカップにカフェ・オ・レ入れたい人生だったな。そんで、勉強中の手元を写したVlog撮って、SNSにアップするの。Study with me、ってタグ付けして。
夢想しながら椅子に座って、部屋を見回して、……現実にげんなりする。
自室の襖には鍵なんてついてないし、床は畳だ。暗くて狭い和室に、小学生の頃から愛用している小さな学習机、申し訳程度の光量のスタンドライト。映えない。
オシャレに勉強、なんていうのは夢のまた夢だ。
ここからは更なるげんなりポイント。
指定カバンからボロボロになった教科書とノートを取り出すと、心の奥底から惨めさが沸き上がってくる。
他人の靴跡がばっちりと残された教科書。無惨にもちぎられたページをテープで補修したノート。おばあちゃんの笑顔が脳裏に浮かぶ。こんなの、絶対に知られちゃダメ。
ページ全体に消しゴムをかける。紙に残った足跡って、案外消しゴムで綺麗に消せるんだよね。最近知ったライフハックっていうやつ。
アイツらもみんな、消しゴムで消せちゃえばいいのに。
教科書を拾い集めた時に仰ぎ見たヤツらの顔を思い浮かべて、アタシは麦茶を一口飲んだ。
……。うん、時間がもったいない。
返却された数学の小テストを机に並べて置く。
ひなげしには勉強してない、なんて言ったけど、嘘。授業の予習復習は欠かさなかったから、割と自信はあったのに。文系志望だとは言っても、ほとんど解けなかったショックは大きかった。
とりあえず、この復習から。期末のテストも近い。塾に通えない分、勉強は自力で頑張らなくちゃいけない。
来年度、学年が上がればクラスは成績順になる。ひなげしと同じクラスに入りたい。
机に散らばった大量の消しカスを雑に吹き飛ばすと、くしゃくしゃのノートを開いた。
くそったれたこの世界から逃げ出すために今のアタシにできることなんて、実のところ勉強くらいしかないのだ。
翌日登校してきたひなげしの目元は、真っ赤に腫れあがっていた。
『昨日も夜更かし?』
ひなげしを思い浮かべて買ったユニコーン柄のメモに手紙を書いて、ひなげしの机にそっと忍ばせる。
少ししてトイレから戻ると、指定カバンのポケットに返事が届いていた。ルーズリーフの切れっ端だ。
『勉強してたら、朝の4時!眠いよ~』
ひなげしが目元を腫らして登校するのは、今回が初めてじゃない。
最初のころは毎回「何かあった?」って訊いていた。
あまり言いたくなさそうだったけど、アタシがしつこく聞いたせいかな、しばらくしたら少し困ったように眉を下げて「私の目、腫れやすいの」と目元を近くで見せてくれた。
皮膚が薄くて、少しの刺激でも赤く腫れてしまうのだそうだ。
ホコリが舞う西日の中で見た彼女の目元は、確かに血管が透けて見えるほど真っ白で、綺麗だった。
「実はね、ただの夜更かしなの」
ひなげしは恥ずかしそうに言った。
「眠くて目をこするなんて、子供みたいでしょ。縄さんだけの秘密にしておいてね」
もちろん、アタシはひなげしの秘密はずっと守り続けている。
休み時間に校内の自販機でイチゴミルクを買った。
甘すぎてアタシは好きじゃないけど、ひなげしは多分好きだ。女の子の好む飲み物と言えば、だいたいミルクティーかイチゴミルクだろう。
ひなげしの志望校は、かなり偏差値の高い女子大らしい。格式高い女子大で学生生活を送る姿は、彼女によく似合う。
『勉強は無理なく!目指せ女子大!』
クラスメイトの目を避けながら、メモと一緒にひなげしの机に置く。
授業が始まる直前に席に戻ってきたひなげしは、イチゴミルクとメモを手にじっとしていた。アタシの席からは、ひなげしの後ろ姿しか見えない。
ビックリしたかな。サプライズ成功?どんな顔してるんだろう。
メッセージを見て、感動して涙ぐんでたりして。
今日もいつも通り、いつもの橋にアタシが先に辿りつく。
いつものように川べりに降りてひなげしを待とうと橋を回り込んで…… 足を止めた。なんと言っても臭い。
この川はいつだって臭いけど、それどころじゃないにおいがする。
目と鼻の奥がツーンとする。大量の吐瀉物を頭からブチかけられたような強烈なにおい。貰いゲロしそうだ。
あまりのにおいに逡巡していると、背後からひなげしの声がした。
「うわ、なに、このにおい」
振り返るとひなげしがぷくぷくの手で鼻を覆って立っていた。
「やばいよね。どこか別のところ、行こうか?」
「他に行くところなんてある? ちょっとくらいのにおいは我慢するしかないよ。行こう」
「うそ、 “ちょっと”なんてレベルじゃなくない?」
ひなげしはアタシの静止も聞かずにどんどん橋の下へ降りていく。乱暴にカバンを投げ置いて、大きく息を吐きながら地べたにドスンと音を立てて座った。
イラついているみたいだった。
余計なことを口にしたら、ひなげしは余計に機嫌を悪くするだろう。面倒だな、と思いつつ、アタシは静かに横に腰を下ろした。
二人の間に、異様な臭気が漂っている。
「あーあ、帰りたくないなぁ」
ひなげしは短い足を投げ出して不満を吐き出した。真っ白な靴下に、土埃が付く。
「うちのママ、なんでもかんでも全部ダメ、ダメって、そればっかり。私のやりたいこと、なんにもできやしない」
「あんなに優しそうなのに?」
「“優しそう”に見えるだけだよ」
吐き捨てるように言いながら、ひなげしは妙に力のこもった目でどこか一点を見つめていた。
「……ね、縄さんだけに、私の秘密教えてあげる」
ボソッと呟かれた言葉に、アタシの心臓がツンと高鳴る。思わず吐息が漏れ出しそうになるけど、ため息と勘違いされたら堪らないから、ぐっとこらえて、続きを待った。
「私、本当はね、パパと同じお仕事したいの」
アタシは少し驚いた。
離婚して以来、ひなげしのママは、パパの話をする度に烈火の如く怒ると聞いたことがあったから。このままじゃパパの事、何もかも忘れちゃう、と嘆いていたひなげしの横顔が思い出される。
「だから、ママには内緒ね。絶対に言わないで」
「それでね、そのためには、理学部のある大学に行かなくちゃ。本当は、女子大になんて、これっぽっちも行きたくないの、私」
「理学部って、男の人ばっかりなんじゃないの。大丈夫なの?」
思わずそう口走ると、ひなげしはアタシをキッと睨んだ。
「勉強するために行くのに、男とか女とか、関係なくない?」
「そうかもしれないけど。そこまでして勉強したいことって、何?」
「……もう、縄さんに言っても無駄ってわかったから、言わない」
どうやらヘソを曲げてしまったらしい。いつもみたいにほっぺを膨らませたり、唇を尖らせたりもしないから、多分相当怒ってる。
アタシはひなげしの横顔から目を逸らした。
だって、骨の髄まで女の子、って感じなのに。男の子だらけの場所に行ったって、浮いちゃうと思ったの。
外見が良ければ少しは、とも思うけど、お世辞にも可愛いと言える容姿ではないし。……余計なお世話かもしれないけど。
アタシが心の中で言い訳を並べている間、結構長いこと、無言でいたと思う。
突然、ひなげしが立ち上がった。予備校に行くにはまだ早いのに。アタシのこと、置いていくほど怒ったの?
不安を感じて、後ろ姿を目で追う。ひなげしはどすんどすんと地面を踏み鳴らして、川べりの草むらをかきわけて進んで行った。
ぐちゃ、と音がした。泥の中に、勢いよく手を突っ込んだような音。ほぼ同時に、ひなげしの姿は背の高い草の中へ消えて行った。
「ひなげし!?」
勢い余って川に落ちたのかと思って、慌てて駆け寄る。
雑草をかき分けた先で、ひなげしは膝を地面につけて丸まっていた。身体全体を震わせて、大きく頭を振っている。近付くにつれて、ぐちゃ、ぐちゃ、という湿った音と、ツンとしたにおいが強くなる。
まさか、と思う暇もなかった。
「……なに、食べてるの?」
声を絞り出すのがやっとだった。こんな形で臭気の出所がわかるなんて。
ひなげしの手元には……口元と言うべきか。イタチか何か、小動物の腐乱死体があった。
表面は波打つように蠢いている。大量にウジが沸いているようだった。ひなげしは尚も一心不乱に死体を貪り食っている。
「ひなげし」
直視するのもキツいけど、それでも吐き気を堪えつつ、彼女の背中に触れた。アタシの指先は、小刻みに震えている。ひなげしはピタリと動きを止めた。
「ひなげし」
なんて言えば良いのかわからなくて、もう一度名前を呼んだ。
ひなげしの手から取り落とされた腐乱死体は、当初の三分の一程の大きさになっていた。ぱちゃん、と儚い音を立てて川の流れに消えていく。
ウェッ、とひなげしが嘔吐く。
背中をさすろうとしたアタシの手は、強い力ではたき落とされた。
彼女はアタシを睨んでいた。大きな両目一杯に溜まった涙が、光の反射でキラキラと輝いている。
その輝きのせいで、アタシは身動きが取れなくなった。金縛りになったみたいだ。
ひなげしは立ち上がると、見たこともないくらいのガニ股でヨタヨタと走り去っていった。
吹き抜ける風が、橋の下の澱んだ腐敗臭をかき混ぜる。
髪が汗で湿った頬に貼り付いてむず痒い。現実味を欠いたフワフワとした思考回路が、縮毛矯正に失敗したパサパサの髪への失望感を浮遊させる。
しつこい蜘蛛の巣みたいに執拗に肌をくすぐる不快な髪を乱暴にかき上げると、アタシはひなげしの去った方向に目をやった。
ひなげしってば。これから予備校なのに、カバンを置いていっちゃって。
地面に放り出されたひなげしのカバンを拾いあげる。
ファスナーが開いていたせいで、数冊の教科書とノートが顔を覗かせていた。
こういうところは途端に乱暴なんだから。アタシがフォローしてあげないと。
アタシは誰に言うともなく呟いた。
ひなげしの荷物を片付けながら、不要なものは容赦なく捨てていく。そう、たとえば、手付かずのイチゴミルクのパックとか、ぐちゃぐちゃに握り潰されたユニコーン柄のメモとか。
アタシは人目を避けるように路地を進んだ。
二人分のカバンの重みが、歩みを遅くさせる。
駅に近付くにつれて主張が強くなる飲み屋の裏側、剥き出しになった配管、灰皿替わりに置かれた空き缶、コンクリに染みついた生ゴミのにおい。
早くひなげしのところに行かないと。きっと、たぶん、困ってるから。
さっきから異様なくらいに思考が凪いでいて、世の中の出来事がまるで映画の中の出来事のようにアタシを飛び越えていく。
この世界の中の現実は、アタシにとっての現実は、ひなげしただ一人なんだと思う。
「キモw ゲロくせぇw」
甲高い笑い声が、アタシの世界を切り裂いた。
ひなげしの通う予備校の、2ブロック手前のコンビニの裏。アタシが世界で1番軽蔑しているヤツらの真ん中に、囚われるようにひなげしがいた。
「ゲロみたいな顔したヤツがゲロまみれで公道歩いてんじゃねーよw キモすぎだわw」
「つか、きったないんだけどw その格好でよく来れたねw」
ヤツらはアタシの教科書を踏みつけた時と同じ顔で笑って、アタシのノートを破いた時と同じ声でひなげしを謗っていた。ひなげしは何を言い返すでもなく、ただ立ちすくんでいる。
側頭部がゾワっとして、耳鳴りがした。
「ひなげしを笑うなっ!」
自分でも気付かないうちに、アタシは大きな声で叫んでいた。喉から無理やり搾り出したような、酷くヒステリックな声だった。
ヤツらも、ひなげしも、みんなが一斉にアタシを見た。全員が一様に驚いたような顔をしていた。
「ひなげしを笑うなっ!!」
アタシはもう一度叫んだ。さっきとほとんど変わらない、狂ったような声しか出ない。
ひなげしと目が合った。川べりで別れた時と同じ目でアタシを睨んで、それから転がるように逃げ出していく。
そうだよ、逃げて、ひなげし。アタシが時間を稼ぐから。
アタシはお腹にグッとちからを入れて、両手を振り上げ、決意のままに声を上げながら、ヤツらの中に突っ込んでいく。
「アアアァァ!」
アタシが振り回した両手の拳は、無駄に空を切っただけだった。
「ヤバ」「キモっ」っていう焦ったような小さな声が聞こえたのとほぼ同時に、側頭部にアイツが力任せにぶん回した指定カバンがガスっと入る。
衝撃に耐えられずにふらついた隙に、背中を、腕を、足を、お尻を、容赦なく蹴りつけてくる。アタシは頭を守ように小さく縮こまって、ただ耐えるだけで良かった。
今のうちに、逃げてね。ひなげし。
アタシがその場を離れられたのは、日が完全に沈んでさらにしばらく経ってからだった。
大声を出したと思ってたけどそうでもなかったのか、人通りの少ない路地だったからか、それとも関わり合いになりたくなかったのか、誰も助けてはくれなかったらしい。
気が付いた時にはヤツらは誰もいなくなっていて、アタシはコンクリを舐めるような姿勢でうずくまっていた。誰かがずっと前に吐き捨てたガム跡が、乱雑に水玉模様を描いている。こんな地面、本当は手をつくのも嫌なんだけど。クラクラとする視界に耐えながら、ゆっくりと起き上がる。
動くたびに身体中の関節がミシミシ、ギシギシと音を立てる。
肌が露出している部分は傷だらけだ。夏服でケンカなんてするものじゃない。
アタシとひなげしのカバンは、空になった財布二つと一緒に打ち捨てられていた。もう何度目になるかもわからないけど、ヤツらの人間性を疑う。
拾い上げる気力も筋力も残っていないから、アタシは身体一つで歩き出した。
ひなげしは、無事に逃げられただろうか。
ちゃんとお家に帰れたかな。
今が何時かもわからないけど、大きな月が空高く昇っている。
街明かりが作る何重にもなった自分の影を追いながら、不恰好にフラフラと進む。
伸び放題の雑草をかき分けつつドブ川のほとりに辿りついた時には、呼吸をするのも苦しいくらいだった。
アタシは安堵のため息をついた。この橋の下の秘密の場所は、アタシにとっては確かに、かけがえのない安寧の地だったんだ。
暗がりに向かって、できる限り優しく声をかけた。カスカスに枯れた、出来損ないの声が出た。
「怪我はない?」
暗がりの中で、ずんぐりとした人影が動く。
ひなげしの両目は真っ赤に腫れ上がっていた。何度も目にしたことのある、見慣れた顔だった。
制服を汚す吐物は既に乾ききっているようだったけど、両頬の涙の筋は、月明かりに照らされて暗がりの中でもキラキラ光っている。
あぁ、やっぱり。
「……縄さんって、本当にウザい」
ひなげしは言った。
睨む目付きはずっと変わらないから、きっと本心なんだろう。
「なにもわかってないくせに、理解者ですって顔して。
『ひなげしって、こうだよね』って言いながら、私の事コントロールしようとして。
ウザくて、しつこくて」
ひなげしは言葉を区切って、アタシを改めて睨みつけた。
心臓が大きくドクドク波打って、興奮のあまり涙が出そうになる。
高く昇った月が、橋越しにひなげしを照らした。淡く光って浮かび上がるひなげしの輪郭が、小さく震えている。
次に何を言いたいか、アタシにはわかってるよ、ひなげし。
「あなたって本当にウジ虫みたい」
……あぁ、だめ。笑みが溢れる。
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