第6話



第2章 最初の災い




 飛空艇から降りたとき、足が立たなくなってはいないかと不安だった。座りどおしなのは写本室と同じでも、空を移動する乗り物はこれまで想像したことのないくらい体力を奪っていった。浮揚感と揺れ、絶え間ない気流のうなりで、この旅をはじめて経験する見習いは、一人残らず神経をすり減らしていた。

 国土の大半が山林と農耕地であるメイトロン龍国の王都は、天然の地形に人間が長年にわたって手を加えた台地の上に築かれている。立入禁止の広大な平野のただなかの円形に近い台地は、遠くから見ると平らな断面を上に向けた切り株みたいだ。その切り株の上に、王城を中心に道と水路が走り、街が載っている。……というのは図書館の本から得た知識で、飛空艇の船窓からこの目で見たわけじゃない。あんな小さな窓からでは、見えるのは空の断片だけだった。

 大気は冬の冷たさで、でも不思議な湿り気があった。この国が海にせり出した形であるせいだろうか。ぼうじんマフラーを鼻の上までずり上げながら、僕は船を降りたとたんに全身を刺激するにおいに、圧倒されていた。ほこりと、壊れた木材、流れる水のにおい……大きな災いによって人がいなくなった土地の、それでもいまだ生々しいほど残っている活気の名残り。

 人の肌に触れていた布地と、湿気たジンジャークッキーみたいなにおいが、僕の鼻を通過して肺の奥深くに潜り込む。そのにおいが、ここに人間がいたのだと主張している。

 メイトロンの王都は、さして大きな街並みには見えなかった。高くとも三階を超えることのない、汚れて黒ずんだ建物の群れを、あとから来たアスタリットの軍用しやりようやテント、低い雲のように群れて浮かぶ監視用の小型気球が占拠してしまっている。

 飛空艇の係留地点は王都の東の端で、王城へとつづく大通りが目の前に延びていた。公園なのか緑地なのか、アスタリット軍のテントが立ち並ぶ臨時基地に目立った建物はなく、まるで大急ぎで立ち退きをさせたあとの土地のようだった。

 ふり向いて、係留されている飛空艇をふり仰ぐ。船を係留しているのは鐘楼を模した鉄塔で、はじめからこのために建てられていたかのようだった。メイトロン龍国の王都のためじゃなく、アスタリットから来る船のために。

「図書館員は第六テントへ」

 先にこの拠点へ到着していた兵士の一人が、バインダーを片手にこちらへ歩み寄ってきた。がっちりとしたあごに、点々とひげが目立ちはじめている。鋭い目は、僕たちの顔の表面すれすれ、決して各々の人格に触れない上辺を、冷ややかにすべっていった。

 たくさんのテントがならぶ臨時基地の中を、兵士に指示されてさらに移動する。まだ地面をとらえきれていない僕の足は、ふらつきながらもどうにかみんなに歩調を合わせてくれた。

 空は鈍い灰色だ。曇っているんだ。ただの天気のせいで、あれはじんじゃない。頭ではわかっているのに、緊張のために肺がしびれた。

 無人の街。変色した建物と空っぽの道。一羽の鳥もいない。塵禍にやられてしまったのか、それともアスタリット軍のものものしい車輛や監視気球におびえて近づいてこないのか。

 指定されたテントは、えんすい形のサーカスのものとちがい、四角い灰色ののっぺらぼうだった。アスタリットで生まれるものは、大概灰色をしているらしい。テントの外に運搬車が乗りつけ、兵士たちが荷台からげいバイクを下ろしては並べた。ニノホたちが操縦するバイクだ。

「すげえ。お客さま扱いじゃないか」

 ホリシイがずり上げたマフラーの下でつぶやく。すかさずユキタムが、ホリシイの頭をはたいた。

「ばか。俺たちが運ぶより早いからだよ。ここじゃあまともに統率が取れてなくて力仕事もできない〝図書館員〟は、お荷物扱いだからな」

 どうやら軍の中では、僕たちは写本士ではなく『図書館員』と呼ばれるらしい。

 案内役の兵士がテントの入口をくぐる。

 中には机が置かれ、書類を前にした分厚い眼鏡の兵士が、大きくまゆを上げながら写本士たちを迎え入れた。

「今回はずいぶんと、小さいのが増えたな」

 眼鏡の兵士は、失笑を隠そうともしないでそう言うと、銀色の軸のペンにキャップをはめた。書き味よりも丈夫さと量産できることを優先させた、鋼鉄製のペン先のものだ。椅子を引いて立ち上がると、兵士は写本士の中で一番背の高いモルタよりも、頭ひとつ大きかった。身長だけでなく、骨格そのものがまるで別種の生き物みたいだ。

「国立図書館員、全八名です。見習い生が四名、今回はじめて任務に参加します」

 モルタが兵士に向き合い、仏頂面のまま告げる。船を降りてからかすかな耳鳴りがつづいていて、モルタの声はいつもより低く感じられた。

 兵士は、銀色のペンをむちのように自分のてのひらにくり返し打ちつけながら、ならんで立つ僕たちを順に品定めした。

「国軍は入隊募集をかけすぎると批判されるが、人手不足は図書館の方が深刻そうだな」

 モダが何度もまばたきをし、ノラユが歯を食いしばっている。僕の手はいやな汗でじっとりと湿っていた。

「数は集まるのにうまく育たない新入りが多いと、父が手紙で嘆いていました」

 冷ややかなまなざしをテントの壁に向けたまま、ニノホが言った。

「新人教育の下手な部下が多くて困る、だったかな」

「ふむ」

 兵士はペンを握り込み、眼鏡をはずした。ひとみの灰色は淡く、濁った白目の方が目立つほどだった。

「ご忠告はしっかりとどめておこう。しかしこの任務地で、君はシキニ少佐のご息女ではなく一人の図書館員だ。そのつもりで行動してもらいたい。──さて、今回から、きみたち図書館員の滞在期間が短縮される。五日の行程のうち、最終日は帰国のための移動に充てられる。四日で書籍のリストアップと搬出を行うように。王都であるだけに範囲が広いが、すべてを洗う時間はない。活動場所を王城の書庫に絞ってもらいたい」

「今回から?」

 ニノホが、圧倒的な体格差のある相手の言葉にみついた。相手は堅い意志をこめて口を引き結び、厳然と言葉を返した。

「そうだ。アスタリットの図書館員が勝手に持ち出した書物を書き換えていると、周辺国の一部で悪評が立ちはじめている。書籍持ち出しに割く時間も人員も、今後増やすことはないと決定された」

 ニノホとユキタム、そしてモルタが色めき立った。もともと今回は異例の短期間任務だと、僕たちは聞かされていた。それをさらに一日、短縮するということだ。

「悪評って、誰がそんなでたらめを言ってるんだ? 書き換えなんてするもんか。写本士は、救出した本を一字一句まちがえずに書き写して、本をよみがえらせてるのに」

 ユキタムの声を、兵士はまなざしの動きだけで制した。

「事実かどうかではなく、そういう評判が立っているということだ。周辺国からの心証を悪くしては、軍の活動に支障が出る。ひいては、アスタリット国民の不利益にもつながる」

 腹にしっかり力がこもっているのに、兵士の話し方はあからさまにぞんざいだった。僕たちのお守りを任されたいらちが、眼鏡のあとが残る顔の皮膚やきれいに爪を切った指のすきまからにじみ出ていた。

 テント内には王都の地図が掲げられており、僕たちはそこで作戦についてのレクチャーを受けた。市街地の状態。王城までのルート。補給船の位置。近づいてはいけない汚染区域。

 ごくり、とつばを飲む音が、マフラーを巻いたのどから聞こえてきた。ほんとうにこの場所へ来たのだという実感が、否応なく体の中に湧き上がる。流派ごとに色違いの制服を着た写本士たちは、うっかりまちがった住所へ届けられた小包に思えた。

 肩掛けかばんの上から、中に入っているペンとノートを押さえた。ホルダーで鞄とつながった、ちくでんじゆうを燃料にする小型カンテラが、不安定に揺れた。

「日没は五時五十一分。四時二十分には全員ここへ戻っておくように。何か質問は?」

 ルートを書き込んだ地図を背に、兵士が鋭い眼光で僕たちを見回した。誰もが口を引き結んで、あるいは不満げに視線をそらして、問いを発することはなかった。


 鯨油バイクが、メイトロンの王都を走り出す。えん形の気球が浮かぶ下を行くバイクは、さながら回遊魚の腹の下をくぐる一列の小魚だった。

「ほんと、軍人って嫌味な連中」

 エンジン音に負けじと、ニノホが声を張り上げた。

「任務地へ到着してからあんなことを聞かせるなんて。きっと館長にはこの五日のあいだに、任務期間の恒久的短縮を知らせるのよ。学問も芸術も、戦争で役に立たないものはみぃんな無価値だと思い込んでるんだから。何が大事かは、歴史が証明するわよ。時間をかけて」

 僕からの返事を期待しているのではなく、ただ怒りを吐き出して気を鎮めようとしているらしい。もしくは移動で疲弊した体と頭を、臨戦態勢に持ってゆくための燃料投入なのかもしれない。ニノホの憤りはタイヤへじかに伝わって、僕らのバイクは縦列をあっというまに置き去りにして疾走した。

 市街地のはずれにひしめくのは木造の民家だったけれど、中心部へ向かうにつれて木とレンガを組み合わせた建築が増えてゆく。街灯があり、商店の看板があった。道幅は決して広いとは言えず、要所要所に停まっているアスタリット軍の装甲車が、いかにも不釣り合いだった。

 塵禍が襲った街に、ほんの二週間前までここに暮らしていた人々の影はない。いるのは泥の色の軍服を着たアスタリットの兵士だけ。家があり、店が開いたままになり、道が延びているのに、それらを使っていた人たちは、もういない。ここに住んでいた人々の大半は、突如飛来した砂嵐状の有毒なちりによって体内から分解され、ほぼ一瞬のうちに死んだんだ。

 人の形をした影が、路地の端にこびりついているのを見た。誰かが路面に倒れふし、助けを求めて手を伸ばしたかつこうのようだった。あるいは風に取り残された塵が、そんな形に見えただけかもしれない。どのみち、もうすぐ風に乗って消えてしまいそうな影だった。

 塵禍によって死んだ人間は、みずからも強毒性の塵の一部となる。そうして新たな災いに仲間入りして、またどこかの土地を犠牲にするんだ。

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