第5話

「その本は、わしが棚へ戻しておいてやろう」

 ナガナ師が、使い込まれて古びた絵筆みたいなあごひげを、節の浮いた長い指でしごいた。

 セピア派の老師は標準的なアスタリット人で、肌の色は白に近い灰色なのに、その両手だけはつやが出るほど茶色い。長年のあいだに染み込んだインクの色だとナガナ師は言うけれど、ほんとうかどうかはわからない。玄派のマハル師の手は、インクまみれではあるけど真っ黒ではないし、ブルー派のシメラニ師はいつも手袋をはめていて確かめられない。

「さて、コボル。もう宿舎へ戻って休みなさい」

 さっきの館長室での出来事が気になったが、僕はおとなしくうなずくことにした。この暗さでは文字を書いて言葉を伝えることができないし、きっとナガナ師は僕に聞かせても構わないこと、つまりたいして重要でないことしか教えてくれないだろう。

 図書館の外廊下は痛いくらいに寒かった。

 ナガナ師が細い体にまとっているのは写本士たちの平服とほぼ変わらない仕立ての服で、だけどちっとも寒さにすくむそぶりはなかった。外廊下の照明はとっくに消されていて、ナガナ師の持つカンテラが唯一行く手を照らしている。

「わしが教えてきた中でも、コボル、お前はとりわけたくさん書く」

 ナガナ師の声は、真夜中のコウモリの羽音みたいだ。

 僕は黙って歩きながら、自分が発見されたときの切れ切れの記憶のこと、このセピア派の老師から文字を教わった日々のことを思い起こしていた。

 魚の紋章のついた、青と苔色のマーブル模様のペン。喉がうまく使えない僕にも、このペンがあれば感じたことを伝えることができた。何を書くか、どう伝えるか、あるいは隠したままにしておくか。あらゆることを教えてくれるナガナ師は、頭の中にもうひとつの図書館を持っているとしか思えなかった。老師のおかげで、僕が書ける言葉は増えつづけ、編む文章は長くなっていった。

 しゃべることができなくても、文字を書くことで僕は自分の感情に名前をつけ、状況を整理し、学んだことを記憶してそれを別の物語に組み立て直すことができた。もし書くことができなかったら、僕はとっくに出口の見つからない言葉におぼれて身動きが取れなくなっていたと思う。

「アサリス館長は、思い切ったことを決断されたものだ。お前たちのような見習い生まで、塵禍に見舞われた土地へらせるとは。オラブ総統からの要請とはいえ、まさか館長が承諾するとは思わなかった」

 オラブ総統というのは、アスタリット星国軍の最高指揮官、この国の最高権力者だ。僕はもちろん会ったことがないけれど、ニノホが昔一度だけ、遠目に見たことがあるという。この世の苦痛や悩みを一身に背負ってしまったかのような、不幸そうな顔をしていて、そのくせ目つきは鋭利で力をみなぎらせ、見ているとなんだか不安になってくるような人物だと、ニノホは説明した。

「塵禍に見舞われた土地へ赴くとな、教え子たちは見聞きした物事を書いてみるものだ。ここにいては一生涯見ることのなかったものに出会い、その記録を書いておかずにはおれんのだろう。お前が毎日しているように、物語の形で書く者もある。だがな」

 誰もいない外廊下を、カンテラひとつで進む僕とナガナ師は、幽霊の一族みたいに見えるにちがいない。外廊下から枯れ草の上へ踏み出し、闇夜に溶け込んだ菜園を抜け、すでにすべての灯りの消えた宿舎へ向かってゆく。

「ノートはかならず提出する決まりでな。とくに国外へ行った写本士の書いたものは、図書館ではなく政府に回収される」

 ナガナ師の声は、ほがらかさをふくんだままだった。この老師はいつも口の中に飴玉を転がしたような面差しをしている。茶色い両の手は、そこだけ夕焼けの中へ差し出しているみたいだ。

 冬枯れながらかろうじて土にしがみつく草が、刻々とてついてゆく。そんな夜の気配が、地面から凍った空までいっぱいに満ちていた。

 僕は、任務に行った写本士の書いたものがどこにもないことに、いまようやく気がついた。新しい書物が発行できないとしたって、直筆の手記くらい、図書館に保管されていてもよさそうなものなのに。任務に就くことが決まってからも、先輩写本士から口頭で任務内容を教わるばかりで、文章の資料はひとつも与えられなかった。書かれていたのに、図書館に残っていないんだ。

 かじかむことに慣れている足の先から、夜気とはちがう冷たさが這い上がってきた。

「お前は、人一倍書く写本士だ。龍国の王都では、いままで見たこともなかったものを目にするだろう。いままでに書いた経験のないものを。──書くときはな、コボル、人に読ませるに充分なものを書くことだ」

 人に読ませる。……政府の誰かに? いったい誰が、写本士見習いのノートなんかを読むというんだろう?

 だけど僕は、口を引き結んでうなずいていた。普段と変わらず穏やかなナガナ師の声のしんに、鋭い警告の響きがこもっていた。注意していなければ聞き逃すにちがいない、ほんのかすかな。


 飛空艇は、目のない海洋生物に似ている。

 浮力を得るためののうが大部分を占めていて、頑丈な繊維で覆われたそれは白い鯨にそっくりだ。目も口もむなびれもない鯨の腹部に、僕らの乗る船室がくっついている。技師たちや軍人たちが慣れたようすで動き回っているのだけれど、目の前の光景に現実味がまるでないせいで、彼らの顔をうまく見わけることができなかった。

 早朝四時、陽が昇るより前に図書館を出発した。輸送トラックに揺られ、三時間。僕たち八名の写本士は、アスタリット中央部に近い陸軍の基地に到着した。休憩なしで飛空艇に乗り換え、いよいよメイトロンを目指す。

 強い風が吹いているのに、飛空艇はびくともしなかった。鉄塔に係留され、その威容を空に浮かべるときをいまかいまかと待ち構えている。

 オラブ総統を頂点に、アスタリット星国、そして周辺五国をまもる軍隊。その国軍が擁する乗り物は、さながら冒険物語に登場する、凶暴で神秘的な巨大生物だった。徹底的に無機質で、寒々しい色の船体に朝の太陽光をぎらぎらと照り返している。

 あれに乗って海にせり出したメイトロンへ行き、救出したたくさんの本を積み込んで、また帰ってくるんだ。……予定されているひとつひとつの行為が、現実のことだと思えなかった。目に映るものを残らず記憶しようとするのに、何もかもが大きすぎて頭に収まりきらなかった。

 誰かに背中を小突かれる。ふり返ると、ユキタムがこっちに手を差し出していた。

「乗る前に、食っとけ。はじめてのときは、みんな酔うからな」

 小さな銀のチケットのようなそれは、包みに入ったライムガムだった。隣を見ると、ホリシイが夢中で黄緑色のガムを口に入れているので、ユキタムに頭を下げ、僕も真似をした。

 酸っぱい香料の風味が舌先から鼻へと広がる。包み紙からは、どうしてかサーカスのテントのにおいがした。

「メイトロンには、幻の密造酒があるっていうぜ。ちっとも酔うことができないかわりに、飲むだけで若返るっていう」

 ユキタムの軽い口調に、ニノホが肩をすくめる。

「〈りゆうおうしゆ〉ね。王族だけが秘密でたしなんでいるっていう、甦りの妙薬。作り話だろうけど」

 するとモルタが、片方の眉を跳ね上げた。

「作り話というより、そうやって宣伝してるんじゃないのか? 王室御用達の特別な酒だという触れ込みで、大勢がほしがるように。メイトロンでは一般に出回ってる飲み物だろう?」

「あんたが言ってるのは、〈りゆうぜんしゆ〉でしょ。〈龍王酒〉は、会食やお祝い事なんかでふるまわれるお酒よ。メイトロンではいろんなものの名に〝龍〟がつくわよね。国の守護神だから。……わたしはそれより、メイトロンで作られる紙が気になる。〈ながかみ〉という、薄いのにとても丈夫で、インクを美しく留める紙。葉皮紙よりもずっと軽くて、分厚い本を作るのに向いているそうよ。メイトロンにある技術でしか作れなくて、戦前はアスタリットやヴァユでも流通していたって。いつか、その紙に文字を書いてみたい」

「お気楽だな」

 モルタが口をひん曲げた。

「そんなものは今回の仕事じゃ手に入らないし、向こうの人間だって、俺たちなんかには売りたくもないだろうさ。とくに今回は、こっちは完全に……」

 モルタが途中で口をつぐんだのは、一人の兵士が横目にじっとこちらを睨んでいたからだった。ユキタムが肩をすくめ、ニノホが兵士を睨み返して、また飛空艇に視線を戻す。

 ガムをもぐもぐやっているホリシイの向こうで、ノラユが緊張した横顔をアスユリに向けていた。防塵マフラーに巻き込んだアスユリ自慢の三つ編みの先が、風にあおられて揺れている。それは、逃げ出したがってもがいている魚のしっぽみたいだった。

 僕の口の中に、ライムガムの酸味の強い味が定着する。

 いつか目の前のこの光景が、はっきり思い出せないほど僕の記憶から薄れたとき、真っ先に甦るのは毒々しい色の小さなガムと、その味にちがいない。

 こうして僕たちは、旅立った。

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