第4話


 ◆


 むかし。大地と海がまだたがいをわかつ境目を持たなかったころ。

 空を渡る大きな鳥が、卵を落としていった。ゆらゆらとたゆたう泥水の中でぬくめられ、卵の中では、鳥のが刻一刻と育っていった。しかし世界は不安定であったため、泥水とともに卵もまた上へ下へ、さだまらぬ方位へとさまよい、泥水の中の卵には、冷たい雨が、雷と火の粉が降りかかった。

 そのせいだろうか。

 七日と七晩ののち、卵はかえったが、生まれたのは鳥ではなく、うろこをまとったしなやかな龍だった。龍は息を吹いて、自分の寝床であった泥水を追いやり、四つの足で土を踏み固めた。十日にわたってそれをくり返し、大地と海とをわけた。

 龍は地の上に落ち着いたが、そのうち、自分を産み落とした大きな鳥をなつかしんだ。しかしあまりにすがたがちがうため、鳥には龍が血族であるとわかるまいと思われた。嘆いた龍が天へ向かって呼ばわると、その声にこたえて雨が降った。

 滋養に満ちた雨は土を豊かにし、やがて龍の周りに人間たちが田畑を耕した。農地の周りに町ができ、国が形をなした。

 人間たちは龍をよく世話し、大切に扱ったため、龍は土地が枯れぬよう、季節ごとに雨を呼んだ。雨と土に恵まれ、人間たちは飢えることなくこの土地に栄えた。

 龍は人間たちを慈しんだが、自分の血族であるはずの大きな鳥への思慕を忘れることはなかった。

 いまも空へ首を延べ、戻らない血族を呼ばわる声を響かせているという。


 ◆


 時間はほろほろと煤のように散りこぼれてゆく。

 図書館の灯りはほとんど落とされていて、写本室には、小さなランプがひとつともっているきりだった。机に向かっているのは僕一人。明日に迫った出発までに、このページの写本だけは終わらせておかなくてはならなかった。

 セピア派の見習いたちと五人体制で書いている、五巻構成の本。ペガウ犬国の古い英雄物語だった。メイトロンから帰るころにはほかの本も仕上がり、挿絵がつけられて工房で製本されているだろうか。

 普段はこんなに遅くまで写本室を使わせてはもらえないのだけど、何しろ一旦この国からいなくなってしまうので、いまだけ特別許可が下りていた。ホリシイもノラユもモダも、もう自分が担当するページの写本は仕上げていて、僕が最後だった。一ページの写本にこんなに時間がかかるのは久しぶりだ。自分の手が、わざと紙の上で時間稼ぎをしているみたいだった。

 ペン先から、葉皮紙の表面へインクが伝わってゆく。ほのかなインクのむらを作りながら、いままで何もなかった紙の平面に文字が連なってゆく。

 紙が文字を受け入れる一瞬ごとに、僕は息を潜める。何か途方もないものと、自分の手にあるペンがつながっているという、とらえどころがないのに確信めいた気持ちがそうさせる。僕は、この不思議な一瞬の連なりが好きだ。この手が動きつづける限り、ずっと写本台の前にかじりついていたかった。

 写本室には、三つのインクのにおいが染みついている。

 セピアインクは海洋の深みから生まれる。陽の射さない大海原の水の底、知と思索のしんえんからその色は現れた。

 ブルーインクははるかな天から生まれる。もっとも空に近い山の峰に、天と地をつらぬくひらめきとはてしのない思考の広がりを携えてその色は宿った。

 玄のインクは大地のまぶたの奥から生まれる。人と野の生き物と、恵みと病と、生と死と、万物の記憶を抱く土の中から、その色は得られた。

 ──三つの流派それぞれの訓示だ。写本士は訓示を胸に刻み、自分が扱うインクに恥じない文字を書かねばならない。いつかまた、誰もが本を手にすることができるようになる日に備えて。……いや、それだけじゃない。少なくとも僕はちがった。いつか、の未来のためじゃなく、いま、膨大な過去からの遺産である書物がおさまっているここで、自分よりはるかに偉大な書物たちに仕えるために手を動かしている。

 それでもとうとうペンを置くときがやってきて、僕は注意深く、ペン先を紙から離した。

 最後の一行の、終わりの文字を書き終えて、僕はペンを置く。くくりの文字は書き入れない。おしまいの飾り文字を書き入れていいのは、熟練した写本士だけなんだ。

 インクを乾かすため、葉皮紙を壁ぎわの長机に移し、写本台を片づける。照明を落として部屋を出ようとしたとき、ブルー派の列の写本台の椅子に、一冊の本が置いたままになっているのに気がついた。ホリシイの椅子だ。ホリシイも今日、宿舎へ戻るべき時刻を過ぎるまで写本をしていた。それで図書館の読みかけの本を、置き忘れていったらしい。メイトロンに行く前に、本は書架へ返しておかなくてはいけない。手に取ってみると、いつもの癖でしおりの代わりにどこかで拾った葉っぱが挟んである。もう終盤近くの、たぶんクライマックスの直前まで読んでいるらしいけど、残念ながら返却だ。本人はもうとっくに休んでいるだろうから、代わりに本を戻しておくことにした。

 図書館の中は暗く、携行型の照明をかかげて歩く必要があった。完全に真っ暗ではないのは、三人の老師と館長が、毎日遅くまで図書館にいるためだ。

 老師たち、それに館長は、写本士たちが宿舎へ戻ったあとも、毎晩図書館の書物を紐解いている。夜更け、ときとして夜明けまで読みつづけている。それでも命のあるうちに図書館のすべての蔵書を読み終えることはできないと、ナガナ師は残念というより感慨深げによく言うのだった。

 それに今日は、館長が軍部との会合から遅くに帰る予定で、司書たちも残っているはずだった。その証拠に、廊下の先に灯りが見え、人の声が聞こえてくる。ホリシイの読みかけの本は二階の書架に返さなくてはならず、僕は自動的に階段わきの館長室のそばを通ることになった。

「……突き止めて相応の罰を与えねば、また同じことが起きてしまいます」

 ふいに聞こえてきた声は、穏やかなものではなかった。僕はほぼ無意識に、自分の手元の照明を消していた。足音を忍ばせ、声のする方へ近づいてゆく。

「いいんだよ。とくに困ったことは起きていない。荒らされてもいないし、何かが盗まれたというのでもない」

 館長の声だ。本棚の陰からうかがうと、開け放たれた館長室のドアの前に、館長と三人の老師が集まっている。……泥棒でも入ったんだろうか?

「しかし、見逃してはほかの者たちに示しがつきますまい」

 語気を荒らげているのはブルー派のシラメニ師だ。ナガナ師がシラメニ師と館長のやり取りを見守り、その隣で玄派のマハル師がむっつりと腕組みをしている。

 三人の老師を前に立つアサリス館長は、きわだって若い。実際の年齢は三十歳を超えているらしいけれど、灰色の髪をまっすぐ伸ばしたすがたは、もっと若く見えた。つえをつき、背もあまり高い方ではないのに、いつでも毅然と背筋を伸ばしているので、りゅうとした木のように見える人だ。

「写本士たちの出立前だ。ただでさえみんな神経質になっている。いまは、騒ぎにはしない方がいい」

 館長がそう告げると、三人の老師は一様に小さくうなずいた。うなずくというより、頭を下げたのだった。人生の長い時間をこの図書館にささげてきた老師たちを、年若い館長は穏やかな言葉だけで従わせてしまう。

 館長室の奥で、くう、とくぐもった鳥の声がした。アサリス館長が飼っている、飛ばないわしだ。アクイラ翼国の出身であるアサリス館長が、いつもそばに置いている天帝鷲。シルベという名の鷲は、同じくアクイラ出身の先輩写本士であるアスユリが図書館へ来るのと同時にもらわれてきたらしい。見習いのつまみ食いも本の無断持ち出しも見逃すことのない鷲が館長の見えない目のかわりを務めているのだと、老師たちは異口同音に言う。あいつがいたのに、泥棒だなんて。

 僕は心臓を大きく脈打たせながら、本棚の陰で息を潜めていた。ありえない、ととつに思う。図書館の中に館長へのよくない感情を持っている者がいるなんて聞いたことがなかった。館長はまるで、人のすがたをした蔵書の一冊、この国立図書館の一部のような人なんだ。

 それとも……外部の誰かが、入り込んだっていうんだろうか? それもおかしい。物が盗られていないなら、侵入する理由がわからない。それにやっぱり、館長の鷲がいる部屋へ侵入なんてできるわけがない。

 老師たちはまだ戸惑っているみたいだ。憤然たるため息を吐き出したのは、マハル師だ。

 僕は自分がここに居合わせてはまずいと感じ、そっときびすを返そうとした。ホリシイの本は、明日の朝いちばんに本人に返却させればいい。

 が──気配を殺して立ち去ろうとする僕に、穏やかな声がかかった。

「おや、コボルか」

 ナガナ師だった。僕は一瞬息を止め、観念して本棚の陰から横歩きに足を踏み出す。館長室から漏れる暖かみのある灯りが、僕の肩をますます縮めさせた。

「仕事は終わったかな?」

 館長の顔と老師たちの視線が一斉にこちらを向く。もしも体を透明にできる技があるなら、僕はいますぐそれを試したにちがいない。

「こんな時間まで、写本をしていたのですか?」

 シラメニ師が切れ長の目元に、どこか冷ややかな表情を浮かべた。それに対し、ナガナ師は柔らかなしわを幾十と目尻にならべる。

「出発前の仕上げです。終幕を構成するページなので、とりわけ丁寧に書いておったのですよ」

 ナガナ師の言葉に、マハル師がいかにもげんそうな顔をした。

せんえつながら、もう少し余裕をもって仕事を終えるよう、指導された方がよいのでは? 出発前に遅くまで写本をして、体の調子をおろそかにするのは感心しませんな」

 老齢にもかかわらず軍人並みにたくましい体つきのマハル師がけんに皺を寄せると、思わず身がすくむほどの迫力があった。

「まったく、まったく」

 ナガナ師は朗らかな笑みを崩さないまま、そう言ってうなずいた。

 そのとき三人の司書たちが、廊下の向こうから静かに走ってきた。

「誰もいませんでした。どこかから侵入されたらしいようすもなくて……」

 廊下に漏れる館長室の灯りが、司書たちのあおざめた顔を浮かび上がらせる。

「そうか。ご苦労さま」

「あの、お部屋を片づけましょうか?」

 司書の一人がおずおずと申し出るが、館長はてのひらをかざしてかぶりをふった。

「いや、それは必要ない。かわりに、お茶をれてきてもらえるとありがたい。外が寒かったので、脚が痛むんだ」

 館長の言葉に、司書は丁寧にお辞儀をし、三人で簡易キッチンのある司書室へ向かおうとした。と、中の一人が、はっと見開いた目を僕に向けてきた。

 これはよくない状況だ。司書はどうやら、僕が犯人だと疑っているらしい。

 しかしナガナ師が僕の肩に手を置き、ひげの奥に笑い声をくぐもらせた。

「彼はずっと写本室におったので、悪事を働く暇はなかった。シラメニ師も何度も写本室をのぞいておられたので、彼がずっとあそこで書いていたのをご存じだ」

 シラメニ師が、かすかにまゆをひそめた。僕は思わず、ブルー派の冷徹な印象の老師をまじまじと見上げた。老師に見られていたなんて、まったく気づいていなかった。

「……うちの流派にも、これくらい熱心な書き手が増えてほしいものです。いずれ、いまよりも多くの書物が必要となるときのために」

 シラメニ師は静かな声でそう言うと、ごく短いあいさつをしてその場を辞した。マハル師もそれにつづく。僕もナガナ師にうながされて館長室の前をあとにした。

 立ち去る間際、館長室の中へ視線を向けると、天井からるされた人間の子どもでも入れそうなとりかごに、風切り羽を切られたシルベがうずくまって、くり抜いたみたいに光る目をこちらへ向けていた。

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