六話 日常2/2
家まで着くと鍵を開けて玄関を開ける。靴を脱いで家に上がると母さんがリビングのドアを開けた。
「武、おかえり。どこ行ってたの?」
「ちょっと散歩行ってただけ」
「ご飯もうすぐ出来るから手を洗ってからお箸出してりして」
「わかった」
母がリビングに引っ込むと後ろを見る。空中にいくつか浮いていた赤い粒子が少しだけちらついて消えた。
やはり母さんには赤い粒子は見えていないらしい。
そのうち帰ってきた父さんと三人で夕食を食べてテレビを見ながらのんびりする。
「学校はどうだい。画面越しだと色々となれんだろう」
隣に座った父さんがそう聞いてくる。
「まあ、慣れたかな」
「そうか」
納得した様にそう言った父さんは何度か頷いた。
「武、お風呂湧いたから後で入りなさい」
キッチンにいた母さんがそう言う。
「あれ、父さんは?」
「後で入るから先にいいぞ」
一番風呂か、ラッキー。
「んじゃ」
ソファーから立ち上がって脱衣場に向かう。服を脱いで風呂場に入ると、とりあえずシャンプーで髪を洗う。
「失礼するけど、良いかしら?」
聞き馴染みのある声がしてドアの開く音が続く。
「えっ?」
思わず振り向くと、赤い粒子がいた。バスタオル一枚で。
驚いてでかい声を上げそうになるが、そっと彼女の手が俺の口元を覆う。
人差し指を唇に当てて、
「しーっ、ご両親に私といるところを見られたい?」
脅しかよ?
前かがみになった彼女の胸元が見えそうになって慌てて視線を上げる。上げても間近に顔があるのでどっちもどっちだが。
「わかった。それで、どうしたんだよ」
あんまり見過ぎると目の毒なので後ろを向いておく。
「せっかくこうして体があるのだから、色々と体験しようと思ったの」
「体験?」
「そう、この体にも慣れてきたし、この世界にも色々と興味があるの」
なんかもっとあんだろ。と思ったが、彼女にとっては風呂すら初めてか。
「それは良いけど、何で俺が入ってる時にするんだよ」
「あなたやご両親が入っていない時にこっそり入るのは少しね」
確かにそれだとただの風呂泥棒か不審者だ。まあ、こうして勝手に俺の風呂タイムに入って来るのもアレだが。
「わかったよ。とりあえず俺が体洗うの待て」
「別に私は汚れたりしていなから、先に入らせてもらうわね」
湯船に片足をつけた彼女がそのままもう片方の足も浴槽に入れる。
「温かい」
スラリと滑らかな曲線を描く足が少しだけ湯をかき回す。
「湯船にタオルを入れてはダメなのよね」
「そうだけど」
「なら、目を閉じて」
彼女の言う通りに目を閉じる。真っ暗な中でバスタオルが滑る音と水音が妙に鮮明に聞こえた。
「開けて」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。まずは正面の鏡が目に入り、湯船側に首を回す。
肩まで浸かった彼女がパシャパシャと手でお湯を弄んでいた。髪は上の方でまとめられている。
「気持ちがいいわね、これ」
「良かったな」
すぐに視線を戻して彼女に背を向ける形で体を洗う。
「ねえ、体はどう?」
先程まで聞こえていた水音が絶えて次に彼女の声が風呂場に響いた。
「別になんともないけど」
背後に視線を感じながら答える。
「そう、ならいいの」
「どうしてそんな事を聞くんだ?」
少し間を置いて訊ねる。
「あなたの体を今の状態にしたのは私、それも選択肢を与えておいて実質そんなものは無い状況で。だから、あなたの意思をまた聞いておこうと思って」
意外と言ったら彼女に失礼になるかもしれないが、俺の事を気にしているとは思っていなかった。
「今のままでいい」
また害獣が現れて大事な存在が奪われるかもしれない、ならそれを守れる存在で俺はありたい。
「あの子の為?」
「奏もそうだけど、家族とか友達とか、守れる範囲で全て」
そんな事は不可能。そう思ってしまうが、そんな気持が一瞬でもあったら守れなくなってしまう。あの時に諦めてしまったように。
一度しかないチャンスを自分の小さな諦めで不意にしたくない、守れた存在を取りこぼしたくない。
だから、彼女の質問に対してそう答えた。
「良かった。あなたがそういう人で」
穏やかな声音が静かに聞こえた。いつもなら含んだ様な言い方をしているが、今回は違うらしく、俺はその言葉を素直に受け取った。
その後に沈黙が流れてしんみりしたというか、なんか物静かな雰囲気になる。
なんとも言えない空気感。
手前にあった桶の湯を頭から被って全身の泡を流す。
「俺、体洗ったからそろそろ交代しようぜ」
場の雰囲気を一気に打開するべくやや大きな声でそう言い放った。
「そうね」
背後から水の音が聞こえてくる。
「目を閉じて立って」
腰に巻いたタオルを片手で押さえながら立ち上がる。
右肩に滑らかな感触が触れる。彼女の手だと認識した瞬間に一瞬びくりとしてしまう。
「そのままこっち」
右肩にのせられた手に従って移動し、湯船に浸かる。
「開けて」
目を開けると隣に彼女の顔が間近にあった。浴槽の縁に腕をおいて寄りかかっている。
「て、おい」
流石にこれはヤバい。顔が近すぎるし腕と体に挟まれたそれがやたらと強調されて見える。
「見ても良いのよ。見られて困る様にはしていないから」
そういう問題じゃねえよ。どちらかというと俺が困る。
「それ恥ずかしくないのかよ」
「人ではないから、あまりね」
あっさりした様子の彼女が少し体勢を変える。
「わかったよ。目瞑っとくよ」
諦めて目を閉じて肩までしっかり浸かる。
「そう? なら、私は上がるからゆっくりしてね」
小さく聞こえていた呼気が消える。
ようやく俺はゆっくりと風呂につかれるのか。
一人の風呂を満喫して自室に戻ると黒い寝巻姿の彼女がいた。
「ちょ、あんた消えたんじゃ無かったのかよ。え?」
「私は上がるからと言ったでしょう。そういう事よ」
言われてみればそうだ。
「なんで今日はそんなに姿を見せるだよ」
「体を持っているのに何もしないのは損だと思わない?」
風呂の時にも言ってたな。あの時から結構経つので今更じゃないか。でも、慣れてきたとか言ってたっけ。
仮に寝るにしても寝る場所なんてないしどうするつもりだよ。
「色々やりたいのはわかったけど、俺も困るんだよな」
「ダメなの?」
そういう言われ方するとなんか悪い事してるみたいに感じる。
「わかったわかった。寝て良いよ」
「なら、失礼するわね」
彼女がベッドの上に仰向けに寝転ぶ。薄手の寝間着が波打って体のラインを浮かび上がらせた。
「おい、それは俺のベッドだ」
「ほら、ここ」
自身の隣をポンポンと叩く。
「いや、ちょっと待てよ」
「枕はあなたにあげるからほら」
「そういう問題じゃ」
言いたい事を言う前に彼女の手が俺の手を掴み、ベッドへと引き寄せた。
「立ったままでは寝れないでしょう?」
根負けして仕方なく彼女に背を向けて寝そべる。
「ホント、どうしたんだよ急に」
「人に興味が湧いた。そんなところね」
「興味?」
体の勝手がわかりだして人に興味が湧いたって事か? いや、違うか?
「新しい体験はしたくなるものでしょう?」
「まあ、気持ちはわかるかな」
「そういう事。眠くなってきたから明かりを消してもらえる?」
照明のスイッチに手を伸ばしてオフにする。明かりが消えて部屋が真っ暗になった。
「活動しすぎたみたい、眠たい」
いつも粒子に散って消えてしまうから知らなかったが、こいつも眠くなったりするんだな。
「あんたも寝るんだな」
「一応、私も、寝たりはするのよ」
「そうなんだ」
その時、彼女ががよくわからない存在からもっと自分に近い存在の様に感じられた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
程なくして背後から小さな寝息が聞こえてきた。それを聞いている内に俺も眠りに落ちていった。
カーテン隙間から漏れる光で目を覚ます。瞼を開いて最初に見たものは精巧に作られた美しい顔、チラチラと少し瞬きながら舞う赤い燐光だった。
目と鼻の先にある光景に心臓が飛び上がる。
何でこいつがいるんだよ! えっ!
数分混乱したままフリーズしていたが、ようやく状況を思い出す。そういえば昨日の夜は勝手にベッドを占領されて仕方なく二人で寝たのか。
とりあえずベッドを抜け出そうとしたが彼女が俺の腕を抱き枕代わりにしている為、抜け出せない。
自然と頬に添える様な状態の手にはすべすべとした感触と息のかかるこそばゆい感触がして、肘上辺りに柔らかなものが押しあてられていた。
「おい、起きろよ」
彼女の肩を揺すってみる。
「ん、んんー」
小さく呻いて俺の手に顔を擦りつけてくる。親指に当たった唇がフニフニと柔らかい。
「ちょ、マジで起きろって」
もう何度か揺すってやるとようやく彼女は瞼を開く。長い睫毛に縁取られた瞳が焦点の合っていない様子でふらふらと泳いだ。
「あっ、んっ、おはよう」
少し持ち上げていた頭をまた俺の腕に置いた彼女がそっと囁く様に言った。
「おはよ」
軽い荷重を腕に感じながらそう応えた。
「何だか不思議な感じね。何だかボーっとする」
「寝起きが悪いタイプみたいだな」
「そうみたいね。難儀な体」
小さなあくびをした彼女はまた俺の腕に頭を預ける。
「待て待て、俺は起きるからほら、これ」
彼女の頭に自分の枕を敷いてベッドから抜け出す。
「今日は休みだからまあゆっくりしてろよ。俺は顔洗ってくるわ」
エアコンを操作しながらそう言って彼女を見ると、すでに目を閉じて眠っていた。母さんに見つかったりしたら不味いからさっさと顔洗って戻るか、朝食までまだ時間ありそうだし。
朝の静かな家の中で母さんや父さんを起こさない様にそっと洗面所に移動して洗顔や歯磨きを済ませる。
部屋に戻るとPCを起動させて学校の宿題に取り掛かった。
「宿題?」
いつの間にか起きていた彼女が横になったままこちらを見ていた。
「おう、あんたが起きて来ねえし親来たら不味いし」
「寝ていてもご両親が来たら消えるつもりだったから杞憂よ」
寝てても消えれるのか、器用だな。
「まあ、起きてきても基本、俺の部屋には来ないから一応ってだけだよ」
母さんは起きたら朝食の支度だし、父さんはそもそも朝食を食べる頃くらいじゃないと起きてこない。
「そう」
「それでさ、体の方は?」
「それなりね。慣れはしたけど、完全に違和感を覚えない訳ではないと言ったところね。まあ、十分よ」
「ふーん、よくわかんねえけど、良かったって事か」
「そうね、そういう認識で問題ないわ」
ベッドに横になったままの彼女が静かに応えた。
「それで、起きたならベッド降りたらどうだ」
「そうするわ」
横になった状態からベッドに腰掛け、彼女が立ち上がる。それと同時に服も寝間着からいつもの学生服へと変わった。
学校無い日に学生服なのは違和感がある。
「だいたいいつもその服だよな」
なんとなく思ったので聞いてみる。
「あまり変える必要もないから」
「まあ、そうだけど。変わる時はかなり変えるよな」
昨日の出かける際や寝間着といい、学生服以外は妙に凝った服装を着ている印象がある。一見シンプルに黒に白いライン入の寝間着と思えば、胸等にちょこちょこロゴっぽいのや文字みたいなのがデザインされてたりするし。
「そうね、無難なのでは味気ないと思って」
「着飾りたいって事か?」
「そうかもしれないわね」
学生服をつまみ上げながら今の服を彼女が眺める。ファッションを気にするとか意外と他の女子とかと一緒なのかもな。
「ところでさ、その服っていつもどうしてるんだ? 手品みたいに着替えてるけど」
「構成しているだけよ」
「構成?」
「そう、その場で作っている。と言えば良いのかしら」
一瞬で服が現れてると思ったらその場で服を作ってた?
いまいちピンとこない。
「3Dプリンターみたいなものよ」
「ああ、そういうやつか」
そう言われてようやく俺は納得した。
しばらく他愛もない話をしていたが、母さんが朝食に呼びに来る。
「飯だわ」
「じゃあ、私は失礼するわね」
彼女がいつもみたいに赤い粒子となって霧散すると自分もリビングへと向かった。
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