三話 表層1/2

 鏡の前に立っておかしな所がないか確認し、ワンショルダーバッグを掛けて家を出る。


「おはよう」


 聞き慣れた声がして右を向くと、奏が立っていた。いくつもの薄い幾何学模様の入った白いシャツに、オーバーサイズのやや暗い白のアウターを着ている。下にはライトグレーのゆったりとした短いズボンを履いて、靴はネイビーブルーに灰色のストライプが入ったミリタリーブーツだ。いつもはシャツにズボンくらいの時もあるので珍しいな。

 ついでに髪も変わって、全体的にふんわりとさせて前髪の分け方も違う。それに、いつも前髪を耳の上に流すのにつけているピンも、耳の上に扇状にいくつも並べられている。


「おはよう。待ってたのか?」


 奏が小さく首を振り、


「んーん、さっき来たばっかり、チャイム押す前にタケルが出てきた」

「そうか。じゃあ、行こうぜ」

「うん」


 そのまま並んで歩き出す。いつもなら簡単に話の話題なりを振れるのだが、変に意識してしまっていつもみたいに話をふれない。どうも赤い粒子の言葉が頭の片隅に残っているらしかった。


「なあ、勢いで連絡して、こうなったけどさ。奏は良かったのか?」

「ん?」


 奏が不思議そうな顔をして俺を見る。


「いや、ほら、もう少し時間があってもよかったとか、そういうの」

「時間が全てを解決する訳じゃないし、変化が欲しかったから、良いよ。タケルが誘ってくれて嬉しかったから」

「そうか。なら、良かった」


 なんとなく安堵して自然と笑う。

 奏も小さく笑った。

 そのままいつもよりかは少ないが、適当に話しながら駅まで歩いて行く。


「ねえ、電車、何時だっけ?」

「あと三十分あるから大丈夫。気にすんな」

「本当?」


 若干、奏に疑いの眼差しを向けられる。いや、今までそんな電車の時間違えて大変な目に会ったとか無いよな。それに電車なんて乗り過ごしてもちょっとも待てば来るでしょ。


「お、おう、大丈夫だよ。ああ」


 何故か無意味な不安感に駆られながらそう言った。


「そうなんだ、じゃあ、いいか」


 何かに納得した表情の奏は人混みの向こうに見える駅に視線を移した。休日なのでいつもよく見るスーツや学生服ではなくカジュアルな服装の人が多い。


「人、多いね。いつもと変わらないみたい」


 少し前の自分と同じ気持なのか、奏が小さくそう呟いた。


「いい事じゃん、こうやって普通にみんなが生活してるって」


 ほんの一瞬、僅かに目を細めて唇を引き締めた奏がいつもの表情に戻り、


「そうだね」


 そう言って俺より一歩先を歩いた。この時、もう少し違う言葉をかければ良かったと後悔した。

 赤信号で止まっている車の前を通って他の大勢と同じく駅に向かい、電車に乗った。席は空いていなかったので手すりに掴まった。


「それで、タケル。どこ行くの?」

「あそこ、あれ」


 名前が長いので若干思い出すのに手間取りながら名前を言う。


「タケル、意外とわかってるね」


 目を丸くした奏が妙な抑揚をつけながらそう発した。予想の斜め上を行った反応に思わず困惑する。


「お、ちょ、意外って何だよ。俺がどこに連れて行くと思ってたんだよ」

「もっとオタク的なお店か、もうよくわからないビジュアル系バンドのライブとか?」

「いや、それは安藤達だよ。一緒にショップ行ったりはするけど俺はそんなにオタクじゃねえよ。そしてビジュアル系バンドとか知らないよ」

「そうだね。見た目普通だし。でも、アニメとか漫画見ないの?」


 オタク判定があまりにも雑い。ついでにビジュアル系好きの判断も。

 オタクをなんだと思っているんだ。特定ジャンルが好きなだけの人達で現代なら割と普通な存在だろ。

 狼狽しかける自分を落ち着かせ、一呼吸おいてから諭すように言う。


「見てるけどさ、その理論だと世界中の結構な人間がオタクになるぞ。そんなオタクって言うほどディープに嗜んでねえよ」

「そっか、言われてみればそうかも」


 何やら納得した表情の奏が車窓の外へ視線を向けた。自分もそちらに視線を向ける。

 まだ斜めから射し込む光を浴びて、ガラスと鏡の摩天楼が眩しく煌めきを放っている。綺麗な景色だった。


「綺麗だね。永遠みたい」


 奏を見る。いつもより大人びた、何なら他人みたいな顔をしていた。


「永遠だよ。壊れたりしない」

「でも」


 その先を言う前に車内アナウンスが流れ、奏は口を閉ざした。


「ここだな」

「忘れ物ない?」


 先程の空気感はどこへいったのか、奏が母さんみたいな事を言った。ポケットやバッグを確認するが中身は全て揃っていた。


「ないな、大丈夫」


 じきに電車が止まり、人の流れに乗ってそのまま駅の外へと出た。


「とりあえず、あそこまで行くか」


 駅前の信号で待ちながら、遠くに見える巨大な商業施設を示す。


「ん。それで、その後は?」


 数秒の間をおいて俺は、


「大丈夫、考えてる。考えてる」


 多少は調べて来たが店舗数が多すぎて若干諦めた節はある。だが、十分なはずだ。


「どうして、自分に言い聞かせる様に言うの?」


 余計な事を口走りかけたが、適当にお茶を濁しながら上を見る。車道の信号が赤くなって、視線を下げると信号が青に変わったので白線を越えた。向かいで待っていた人集りも一斉に動き、渋滞しながら進む。奏が流されそうになっていたので手を掴んだ。

 高層建築物と広い車道に挟まれた幅のある歩道を歩く。広い歩道を多くの人が行き交う。


「こういうの、なんかだか久しぶり」


 まるで上京したばかりの人間みたいに、奏がキョロキョロと周囲に視線を散らせる。


「一週間ぶりくらいか?」

「んー」


 俺の声に反応してこちらを向いたあとにどこを見るでもなく視線を泳がせて、


「もっと、かな?」


 感慨深そうなどことなく悲しそうな、よくわからない表情の奏がまた俺に視線を向けた。


「引きこもり過ぎだろ。損してるぜ」

「そうかも。だから、今日は楽しもうと思うの、タケル、お願いね」


 奏が少し口角を上げて笑った。その表情を見れた事が嬉しくて俺も笑った。なんとなく奏の気持ちがいい方へ向かっているのがわかった。


「お願いされなくても勝手にやってやろうって思ってたよ」


 ちょっと冗談っぽく言う。

 だが、実際そうだった。もしも奏が家から出ないで自分の中のジレンマ、負のループから抜け出せないのであれば、俺がそれを壊してやろうと思っていた。とにかく、奏の暗い顔は見たくなかった。

 まあ、それは杞憂に終わったらしい。


「そうなんだ」


 奏がちょっと目を丸くした。


「いや、小さい頃からずっと一緒の友達が引きこもってたらさ、なんかしようと思うのは普通だろ?」

「そう言われたら、そうかも」

「だろ?」


 そうこう話していると目的地の前に来ていた。前に来たときはあまり良く見ていないし、それ以前もそこまで来ることはなかった。それよりも道中のショップやらに友達と行く事が多い。


「おっきいね」


 奏が巨大なブロックを積み上げた様な見た目の建物を見上げる。改めて見るとデカい。


「こう、ちゃんと見たの初めてかも。デカいな」


 上げていた視線を下げると白く細い鉄骨が鳥の巣みたいに組まれて上はガラス張りになっている。巣の中を通ると入口のガラスに彫刻が施されて全体に薄くモザイクの入ったが自動ドアが開く。開く時に扉はチラチラと薄い虹色の色合いを変えた。


「ここ、入口凝ってるよね」


 唐突に言われてピンと来なかったが言われてみたらそうだ。いつも気にせずに通っていたが、美術館とかの入口くらいの凝りようだ。


「というか、この建物全部がオブジェっぽいよな」

「そうかも」


 人混みの中を他愛もない話をしながら進み、エレベーターに乗る。

 上昇するごとに人が小さくなって、ビルの背を超えると向こうまで一気に見える様になる。

 人がどこかの階で半分ほど減り、最上階に上がる頃には程々の人数になっていた。昼頃なので展望エリアの人が少なくなるのは事前に調べていた通りだ。


「この時間は比較的人が少ないからゆっくり出来るぜ」

「そうなんだ。あっ、調べた?」


 それ聞くか? 雰囲気とか察してあんまり聞かないやつじゃねえか、普通。


「まあな」


 奏に無言で見つめられたのでなんとなく照れくさくなりながらそう言う。

 唇を小さく開いてからそっと閉じた奏がふわりと笑った。よくわからないがお気にめしたらしい。

 俺より先に一人で大きなガラスの前にいつもより少し早足で到着した奏が、振り返った。目が合うと奏は前に顔を向け、こちらに小さく結わえられた後ろ髪を見せた。その時になって始めて奏の後ろ髪の変化に気づいた。


「髪型変えたのか」

「最初に気づかなかった?」


 若干間を置いて奏が口を開く。


「いや、後ろだし、しゃあないっていうか。それに、家で出たばっかは勝手に呼び出して良かったかなみたいな不安でだな」

「そんなに気にしなくていいよ。


 こちらに顔を向けたままの奏がそう言いながら柔らかに目を細めた。また今更だが、前髪も結構な変えてる。いつもしているピンも色々と違う。耳の上に緩めにつけられたピンも銀と金のをランダムにさしている。


「てか、何で俺気づかなかったんだよってレベルで髪変えてるよな。ヘアピンもいつもより多いし」


 改めて奏の髪を見ながらそう言う。マジマジと見過ぎたのかちょっと奏が視線をそらした。


「後ろは暑いからだけど、」


 奏が横を向いて下の方で結わえられた短いポニーテール辺りを撫でる。白いうなじが少し汗で濡れて光をキラキラと反射していた。


「前とかはいつもの留め方じゃ味気ないかなって」


 そして、また顔をこちらに向けた。左目の上付近でふんわりと自然に分けられた髪は左はピン留めして、右は柔らかく流している。


「良いんじゃない」

「変じゃない?」


 奏が前髪をちょんちょんと指先で触れる。


「変じゃないよ。似合ってる」

「ありがと」


 自分の髪を見ようと上へ目がちょっと寄っていた奏が視線を下ろし、やや不安そうな表情が綻んで笑った。

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