最終話
*
水が出しっぱなしになっている音で、我に返る。いけない、ぼーっとしていたようだ。私は慌てて水道の蛇口をひねる。なにを、していたんだっけ。記憶をたどるまでもなく、美術室の件で冬夏くんに皆を集めるように、教室で頼んでいたんだった。それで、その前にトイレに行こうとした。そこまではいいのだけれど、呆けているうちに用は済ませたのだろう。
廊下へと出る。物音ひとつしない。……運動部の掛け声も、吹奏楽部の音色もなにも。不気味なぐらいに静まり返っている。なんとなく軽く手を伸ばした。
指先が、人の体温に触れた。
「あっ」
「えっ?」
相手が誰なのかを認識した瞬間、私は数歩、下がった。
「ふ、冬夏くん?」
「うん」同じ冬夏くんでも、春人さんだった。「こんにちは」
「こ、こんにちは」
ほっとして息を吐く。
「ごめんなさい。手、当たりませんでした?」
「当たった、けど。きみのほうこそ大丈夫? 折れてたりしない?」
大げさな心配だったけれど、不快に思うどころかどこか嬉しかった。
「はい。大丈夫です」
「そういえば推理、お見事だったね。無事に解決したよ」
秋人が推理したかどうかは怪しいけれど、と春人さんは訝しげに呟く。
(待って)
『秋人が推理したかどうか、怪しいけれど』?
春人さんは、秋人くんという人格を認識していない。それが仮説だったのに。
疑問が顔に出ていたのだろう。「実はね」と春人さんは説明をしてくれた。いわく、電話をしながら冬夏くんが事件を鮮やかに解決したらしい。電話をしながらというところが彼は引っ掛かっているのだろう。
頭が急速に冷えていくのを感じる。
解離性同一性障害よりも、こっちを先に考えるべきだったのかもしれない。体育と家庭科の授業だけ雰囲気の違う彼、そして数学の授業にもかかわらず遅刻してきた理由。私はそれを人格の入れ替わりの時間だと推理した。
だが、現実は違う。
……冬夏秋人と春人。名前を聞いた段階で察するべきだったのかもしれない。
私はおずおずと、彼に問うた。
「あのお二人って双子、なんですか」
「そうだよ」
春人さんはあっさりと首肯した。
私は、二木先輩と双海先輩の声の区別があまりついていなかった。今回もそれと同じ――それ以上に声がそっくりだった。まとう雰囲気は異なるけれど、本当に瓜二つの声だった。だからこそ解離性同一性障害ではと疑問を抱いたわけだが。
あの日の放課後、「冬夏くんは二人いるんですか?」の質問に彼は頷いた。
あのとき完全に舞い上がっていたが、深く探れば不審な点はある。互いの人格が干渉しない仮説は、あそこで否定されない時点で崩れている。兄弟がいるという情報を知っていたにもかかわらず、あんな質問をした私の負けだ。
頭を抱える私の姿を見て、春人さんはため息をついた。
「ごめん。紛らわしかったよね。俺は兄、アイツは弟。一卵性双生児ってやつ」
「はい、もう大丈夫です。ありがとうございます……」
懇切丁寧に勘違いを指摘され、顔から火が出そうだ。二人は悪くない。トンデモな勘違いをした私がいけないのだから。火照った顔を手で仰ぎつつ、とりあえず私は冬夏くん――秋人くんのほうと合流をしようと決めた。
「あの、弟さんはどちらに」
「部室棟だと思うよ」
「ありがとうございます」
「あー……。結局。幽霊の話は出てこなかったんだけど、日鞠さんわかる?」
引き留めるかのように言った彼の質問に、私は答える。
「丹先輩が流したものだと思います。なるべく部員を美術室に立ち寄られずに、黙々と絵を描きたかったのかと。あの黒戸くんに追いつくために」
「そっか」
頷いた声に、私は今度こそ踵を返す。冬夏くんを探さないと。
「日鞠さん。最後にひとつ、いいかな」
……あまりにも思いつめたような声色だったから、つい振り向いてしまった。
「なにか?」
「十夜って人のこと、知ってる?」
彼は小さく震えたか細い声で、そう言った。
【第二章 了】
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