第28話

 僕達はアパートについた。……ついてしまった。

 二人で話しながら歩いていたせいか、体は温まっていた。帰る場所を見れば明かりが灯っている。これからの出来事を思うと気が重い。

 無言で建物を見上げる僕の肩を、アキナシが叩いた。


「なんだよ」

「大丈夫?」


 僕はまじまじと彼の顔を見上げた。その左肩が濡れていることに気づいて、僕は爪を噛んだ。苛立ちとともに見栄を吐き出す。


「おまえさ、僕になにを思っているのか知らないけど、勝手に憐れんでいるのなら御門違いだ。僕はひとりで家に帰れるし、雨に濡れたって大丈夫だ」

「そんなこと思ってない」


 雨に濡れたら風邪ひくから傘はさしてほしいけど、と一般論を付け加えられた。


「じゃあ――なんでそこまで僕に尽くす?」


 なんのメリットもないのに。

 ここにきて彼の表情が変わった。目を見開いて、口を小さく開けている。それもほんの数秒のことで乱暴に頭をかくと、眉を八の字にして笑った。


「なんでだと思う?」

「質問を質問で返すな」


 口を曲げた僕に、彼は首を小さく傾げた。困ったように目線をそらす。


「今はまだ言えないけど。大丈夫、きみに危害を加えるつもりはない。そこだけは安心して」


 なんて、幸せな男だろう。

 その笑顔、その一挙手一投足が、ナイフとなって僕を傷つけていることを知らないんだ。

 アキナシといると楽しいのに、怒りが抑えられなくなる。

 彼へ向けるソレは、これまでのとは種類とは違う。今までは周りの音や人間に対する苛立ちだった。だけどこれは内側から来ている。心臓の辺りを燃やして、痛ませて、苦しませる。たった今、脳みそを焼かれて、その炎が在ることを再確認した。

 奥歯に力がこもる。悲鳴のように歯がきしんだ。


「おまえは莫迦だ」きつく目をつむる。「本当にどうしようもない、重症だ」

「うん。知ってる」


 柔らかな声がした瞬間、僕は腹から湧いてくる衝動に身をませ、体を動かした。



 ひどい、音がした。



 肩で息をしながら、僕は薄目を開ける。手が痛い。目の前にいた人がいなくなっている。心臓の高鳴りが嫌な予感を加速させる。下へと、視線をずらす。遠くに置かれたグレーの傘、彼の衣服が雨に濡れて変色してく。

 自分が何をしたのかが解った。数歩、後ろへとよろめき――駆けだした。

 痛みから、罪悪感から、殴った事実から、逃げる。足を前へ前へと動かす。自転車にあたろうが、手すりに体をぶつけようがどうだっていい。ただ逃げたかった。いつの間にか帯がほどけたのか、階段をかけていくたびにずるずると引きずる音がする。僕が犯した事象が、影のようについて回っているようだった。

 雨がぴたりと止み、代わりに雨音だけが続いている。アパートに入ってもなお、足は緩めなかった。蛍光灯が寿命を迎えるのか、ついたり消えたりと不安定になっている。転びそうになりながら必死に、階段を駆け上がった。

 もう自分がどこにいるのかもわからなかった。息が上がる。身体が、限界を迎えようとしていた。


「十夜!」


 呼び声の主はうしろにいるだろうと思って、振り返った。やっぱり、いた。アキナシは膝に手をついて、肩を上下させていた。呼吸が乱れるぐらいに、頑張って、追いかけてくれた。……殴ったのに。その事実にどうしようもない苛立ちがこみあげてくる。

 僕は唇を噛みしめ、思い切り手すりを叩く。高い音が響いた。それが合図になったかのように、アキナシが顔を上げた。


「もう暴力は振るうな」


 くしゃくしゃに顔を歪めながら、苦しそうにそう言った。


「……きみが、傷ついてしまうから」


 向けられた言葉は、弾丸のようにまっすぐに僕の心臓を貫いた。

 チカチカと頼りなかった蛍光灯の明かりが、完全に消える。耳を殴られたときのように周りの音が入ってこなくなる。この男が、なにを言っているのか解らない。

 雨音が聞こえはじめたころ、ようやく気付いた。あんまりにも単純で、むごたらしい事実に笑いがこみあげてきそうだった。

 下にいる彼を見つめ、言った。



 髪から流れた冷たい雫が、頬を伝う。

 変わる。その懇願あるいは命令は僕の在り方を根本から否定する。一瞬でもこいつの隣は居心地がいいと勘違いした僕が馬鹿だった。母と、その他大勢の人間と同じだ。

 急速に世界がモノクロになっていく。それでも、思い出はまだ温かい。こんなもの持っていても苛立ちが募るだけだ。

 前髪をかき上げ、アキナシを睨む。それから、


「――――」


 とだけ告げた。たった数文字の言葉は、死刑宣告に聞こえたらしい。彼の顔が青ざめる。

 僕はもう振り返ることなく、階段を駆け上がった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る