第27話

「それは、道に迷ったときに便利そうだな」


 うんうんと何度も頷きながら、彼は満足そうに笑った。

 信号待ちで立ち止まる。今、世界には傘の中にいる僕達だけしかいないような錯覚を覚える。車の走行音も、人が鳴らす雑音も全部、雨音にかき消されていた。その心地よさを僕は目を閉じて享受した。


「十夜もさ、似たような感じなんだよ」


 聞こえてきた言葉に薄目を開けて、アキナシを見る。空を見上げる彼の口元には笑みが浮かんでいる。

 本人は独り言のつもりだったのだろう。が、呟く前に今の僕達の距離感を考えてほしかった。寄り添うようにしているのだから、嫌でも聞き取れてしまう。

 ていうか、どれだ、ゼウスか、ヘラか? どっちにせよ褒められた意味ではないのは、この短い話の中でもわかる。


「けなしてるのかよ、それ」


 不機嫌な声で問いかけると、彼の瞼が持ち上がった。


「い、いやー? 別に、深い意味はないんだ」

「なきゃないで腹が立つんだけど」


 睨んでやると、目線をさまよわせながら話し始めた。


「ほら、きみって、やりたいことはやるし、嫌なことは嫌だってはっきり言えるタイプだろ。そういうとこが似てるっていうか、俺は尊敬しているっていうか」


 ……どう逆立ちしても、いい意味には聞こえない。

 信号が青に変わる。僕は大きめに足を延ばし、勢いよく水たまりを踏んだ。隣を歩く彼にも水しぶきはかかる。情けない「うわっ」という悲鳴は、僕の中のムカつきを取り去ってくれた。


「で、つまらなかった?」

「よくわからなかった」


 正直な感想にアキナシは怒るでもなく、肩を震わせて笑った。

 その痙攣じみた行為が終わると、ふと思いついたかのように僕を見た。


「十夜はさ、クレーターって知ってる?」

「そのぐらいはわかる。あれだろ? ぶつかって凹んだってことだろ」


 天体博士的には百点満点中十点ぐらいの回答だったのだろう。「うーん」と言ったきり、黙ってしまった。気を取り直したように微笑んで、彼は言った。


「人間も同じだよ、十夜。人が人を殴れば、その分、傷つくんだ。クレーターみたいに」

「冗談」


 アキナシの目の前に、拳を突きつける。


「この手の、どこに傷があるって?」


 軽くのけぞられた。それから喉に魚の小骨が突き刺さったかのような、もどかしそうな顔をしてため息をついた。その仕草にちょっとむっとして、僕は仕返しに言う。


「そんなに好きなら、星を見るバイトとか部活とかすればいいんじゃないのか」

「部活のある高校に進学しようと思ってたけど、反対されちゃってさ。諦めたよ」


 諦めたように語る彼の声は沈んでいた。つい首を傾げる。


「押しきればよかっただろ」


 アキナシは一瞬、少し驚いた顔をした。それから彼は「それもそうだね」と眉を下げて、微笑んだ。

 その顔にザリザリと柔らかい部分が削れていく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る