第17話

 ――気づいたら目の前に人が倒れていた。


 何が起こったか、なんて考えるまでもない。痛む拳が、目の前の人間を殴ったことを実感させる。

 相手は顔を抑え、うずくまっていた。指の隙間から赤い液体が伝い、ぽたぽたと床を汚していく。それすらも怒りをわかせるには十分だった。今度は、とどめを刺すつもりで、腕を振り上げる。

 が、それを後ろから掴まれた。いくら力を入れてもびくともしない。だけど、コイツは誰に何をされようが、僕が思いっきりぶん殴らなきゃいけない相手だ。

 腕が動かないのなら、足だ。蹴りの狙いは顔、胴、いやもうどこだっていい、この感情をぶつけられれば。相手はこちらの行動を察してか、包帯を巻かれた方の腕で防御するように体を守る。僕はお構い無しに足を後ろへと引き、そのまま力を込めて勢いをつけて前へと出した。


「十夜」


 何の感情もないフラットな声が、鼓膜を揺さぶる。同時に水中に上がった時のように息を吐き出した。僕は肩で息をしながら、僕の中にあった何かが抜けていくのを感じた。足を床に付ける。それを確認したアキナシも拘束を解いた。


「少し、待てる?」


 有無を言わさない迫力に、ただ黙って頷くことしかできなかった。


「連れがごめん、大丈夫? 吉永」


 しゃがみこみ介抱するその姿を見ながら、僕は自分の手のひらを見た。さっきまで腹の底から沸き上がっていた炎は消えている。と、あることに気づいて顔を上げた。


「吉永? 三角じゃなくて?」


 僕がそう呼ぶと、うずくまる奴の肩が跳ねた。テーブルにあった紙ナプキンで奴の鼻を抑えているアキナシが、顔だけをこちらに向けた。


「知り合いだったの?」


 ぐ、と握りこぶしに力が入る。知り合いもなにもない。答えの代わりに顔をそむけた。

 吉永? 三角? が介抱されるのを黙って見下ろす。アキナシは慣れた手つきで血まみれになった紙ナプキンを新しい紙ナプキンで包む作業を繰り返した。

 ようやくヤツの鼻血が止まると、手をアルコールスプレーで消毒し「ふう」と一息ついた。


「十夜」


 他の連中と同じように説教が始まるのかと身構える。


「どんな理由があっても、人は殴っちゃいけない。それだけは覚えておいて。それで? 吉永。何したんだよほんとに」


 唖然とした。それで終わり?


「まさかそれで終わり!?」


 僕の気持ちを代弁するかのように三角がアキナシを睨む。


「もっとこう――あるだろ、なんか!」

「そりゃあ、もちろん」


 彼は肩をすくめた。


「こうなったのにも理由がある、そうなんだろ。吉永?」

「それは」


 三角は口をつぐむ。

 知り合いの前で言いづらいことだろう、だから助けてやらない。僕は明後日の方向を見た。アキナシも沈黙を保ち、三角の言葉を待つ。


「昔」


 ため息とともに、弱弱しく言葉を吐き出した。


「ちょっかい出してたんだ」


 彼の視線が僕に向けられる。首を横に振った。白夜に、だ。ていうか”ちょっかい”だって? その程度で収まると思ってるのか、コイツ。やっぱり目を潰してやろうか。


「それで吉永に怒ってるってことであってる? 十夜」


 不承不承に頷く。あってるけど、あってない。


「そっか」


 いじめの告白を聞いたにしては、彼は軽い声のトーンで頷いた。


「けど俺がジャッジする話じゃない」

「言っておくけど」


 真正面から、三角を睨みつける。


「僕はこいつを許すつもりはないから」


 その言葉に三角は立ち上がった。顔の血を服の袖で拭い、僕を睨み返してきた。


「許さない、って今、言ったな……?」


 その問いかけに、首を力強く縦に振る。

 どんなお涙頂戴な理由が背景にあれど、コイツを赦すわけがない。本心からの憎悪の言葉に一瞬、ほんの一瞬だけ、怒りを浮かべていた奴の表情が醜く歪んだ。僕は顔をしかめる。


「何? 気持ち悪いんだけど」

「最初に手を出したのはキミでしょ」

「先に殴られるようなことをしたのはそっちだけど」

「あー! もう! ストップストップ!」


 割って入ったのはアキナシだった。僕はじ、と彼を見る。三角も同じように顔を向ける。


「お前、こんなんとつるむなよ」

「きみ、こんなのと付き合うな」


 ほぼ同時に僕と三角の声がかぶさる。


「あぁ……うん。善処するよ」


 間抜けな返事とともに、アキナシは首を縦に振った。

 ……なんだ、てっきり一も二もなく頷いてくれると思ったのに。へらへらしているのに腹が立って、足を蹴った。短いうめき声は聞かなかったことにする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る