第10話
「行ってきます」
「いってらっしゃい。午後から雨の予報だから、なにかあったら電話してね」
「うん」
行ってきます、と改めて口にして、私は玄関から出た。すぐ隣にあるエレベーターへと向かう。下へ向かうボタンを押してから数秒後、チン、という軽やかな音のあとに駆動音がした。そのまま乗り込む。今日は誰も乗ってこないらしく、一階への到着アナウンスと振動とともに止まる。外の暖かな空気が出迎える。私はゆっくりと歩を進めた。
何事もなく校門をくぐり、昇降口で靴を履き替えて靴をしまう。つるつるとした廊下をまっすぐに突き進み、百五十六歩目のところに教室がある。たどりつけるか毎回不安になる。教室のドアに触れた。点字のぽつぽつした感覚が指の腹に伝わる。そのまま無事に自席についた私を出迎えたのは爽やかな声だった。
「日鞠さん。おはよう」
「おはようございます、冬夏くん。昨日のこと、覚えてますか?」
「昨日」彼の返事にはラグがあった。「あぁ、美術室のか」
「はい」
「あれは二重の密室だね」
「どういう意味ですか?」
思わず聞き返していた。冬夏くんは私の疑問に答える。
「だって、そうだろう? 部室棟も、部室を開けるのに鍵を借りるのも、署名が必要になる」
言われてみれば、確かにそうだ。顎に手を添える。受付の人が受け取る以上、鍵に細工をすることはできない。
動機やトリックは置いておいて、鍵を入れ替えて返却するメリットはなんだろうか。自分のアリバイを確保するため。しかし、と私は思い直す。受付のお姉さんはすんなり美術室の鍵を開けていた。その時点で、鍵は美術室のものだったことになる。そうなればすり替えは朝か前日の夕方?
「受付で鍵を借りた人物の名前を探れば――」
「その必要はないわ」
急に話に割り込んできた予想外の声に、むせそうになった。
「藤野さん」
冬夏くんが声の主を呼ぶ。
「よければ話を聞かせてほしいんだけど」
「もちろん! 冬夏くんの頼みなら喜んで」
明らかに『冬夏くんの』を強調された。はい、お邪魔虫は黙ってます。二人きりの時間をどうぞ。
私はこっそりとブレザーに手を忍ばせ、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。今日一日の支度をしながら、彼らの話に耳をそばだてる。
「まず、どこから話せばいいかな?」
「じゃあさっき、鍵を借りた人の名前を探せば、って日鞠さんが言いかけたけど、その必要はないってどういうこと?」
「そうね。今日の朝、胡屋先輩と黒戸くんが鍵を借りたの。うーん、運動部で言うところの朝練かな」
「へえ、そういうのもあるんだ。そういえば、黒戸くんはなにを描いていたの?」
「今度のコンクールの絵。私は楽しみだったからすごい残念」
「絵の復元はできそうにないよね。さすがに」
「それはもうペンキでぐちゃぐちゃ。……時間はあるみたいだから絵は描き直ししてるらしいけど。やる気じゃないみたい」
「だよねぇ」
修復できないぐらいに絵が駄目になった。犯人の動機にこの結果は関わってくるだろう。ありきたりな動機としては、コンクール出場者による妨害だろうか。
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