第9話


 意識が戻る。すぐに状況を把握するべく、適当に手を動かす。座位は保っている。背中には冷たい木の感触がある。どうやら昨晩はドアにもたれかかったまま眠ってしまったらしい。体を触った感じだとパジャマは着ている。お風呂に入っているかは不安だったが、そこは昨日の自分を信じることにした。立ち上がった私は手際よくハンガーにかかっていた制服へと着替える。

 ドアを開けたとき、いい匂いがした。トーストだろうか。


「お母さん、おはよう」

「はくや――?」


 母の声が枯れていた。カラオケに行って喉をつぶしたという二重先輩の声を連想させる。


「あれ? どうしたの、喉風邪?」


 キッチンのほうでやかんが音を立てているが、母は気に留める様子はない。不気味な沈黙に、段々と私は不安になった。


「白夜!」突然、母が大きな声で名前を呼ぶ。「おはよう! すぐご飯準備するね」


 急にスイッチが入ったかのように、母の声は普段のトーンに戻った。

 母はあるときを境に根本的に、なにかが、変わった。いつからだろう。私の記憶が正しければ、ちょうど私の目が見えなくなった時期と合致する。

 私が冬夏くんを苦手なのは、この母の雰囲気を思い出すからかもしれない。

 つけっぱなしのテレビからニュースが流れている。通り魔事件の話題。訳知り顔のコメンテーターが議論している。なんとなく、犯人が捕まったら忘れ去られるんだろうなと頭によぎる。誰かの痛みが娯楽として消費されることに、私は胸が痛んだ。……もちろん怖いから早く逮捕されてほしいのだけれど。

 母の朝食の手伝いをし、二人揃って食卓についた。十二時にバターを塗ったトースト、二時にコーヒーの入ったコップとシュガー、ミルク。いつもの配置だ。


「いただきます」


 かじった瞬間にバターの甘さが口いっぱいに広がる。八枚切りより、分厚い六枚切りのトーストが好きなことを改めて実感する。コーヒーにシュガーを半分、ミルクを全量入れ、ティースプーンでかき混ぜる。

 ゴールデンウィークの特集に切り替わったとき、ご飯終わりの目安のアラームが鳴る。ちょうどキッチンへと食器を下げ終え、端末のアラームを止める。そのまま歯を磨き終え、顔を洗って自室に戻る。化粧水や乳液、日焼け止めを塗りたくり、外出の準備ができた。今日の持ち物を確認していると、二回目のアラームが鳴る。机の上にあったボイスレコーダーをカバンへと入れる。基本的に定位置に物を置いているから、困ることはほとんどない。たまにずれていることはあるけど。

 三度目のアラームを止め、私は玄関へ向かった。靴を履き終え、私は母へ声をかける。

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