第8話
「来てくれたんだ。ありがとう」
ほころんだ顔を見ると、苛立ちがこみあげてきて彼を軽く殴った。「いて」とちっとも痛くなさそうな声を出した。僕は咳払いをすると「今日はどこで座ればいい?」と店内を見回した。
「カウンターかな」
了承の意味を込めて首を縦に振る。我が家で唯一料理を作れる母と顔を合わせれば乱闘が始まりかねない。だから、ゆったりと食事をとれるのは喫茶店しかなかった。僕は丸椅子に座り、軽くあたりを見回した。カウンターの客はほかには誰もいない。
「今日、あったことなんだけど、聞いてくれる?」
「それって、美術室の件?」
「あれ、もう知ってた? 早いね」
不思議そうな声とともに、包丁がリズミカルに食材を切る音がする。もうなにかを作りはじめているらしい。
「一通りは。大方、藤野ってやつじゃないの、やったの」
「だよね」
チン、と軽やかな音がしたほうを見れば、トースターからパンを取り出しているところだった。アキナシは、そのまま目の前の料理に集中しだした。手持無沙汰になった僕は冷えた水をちびちびと飲む。周りのガチャガチャとした食器の音、やけに大きい笑い声、テレビの音。ありとあらゆる環境音が容赦なく耳に入ってくる。
すべてが耳障りで、苛立ちが沸き上がる。一瞬でもいい、この雑音を止めたい。視界にグラスやメニュー表が入る。きっと、これらを全部床に叩き落とせば静かになる。これまでの経験から僕の思い通りになる未来が見える。手のひらを軽く持ち上げて、思い切りテーブルへと叩きつけた。
世界から音が消えた。グラスからこぼれていく水が地面を濡らしていく。自分の不規則な呼吸と心音だけが耳に届く。
「虫でもいた?」
その言葉を合図に、店内の客はぽつぽつと明かりをともすように声が聞こえだす。静寂を破った僕は彼を睨んだ。でも料理に集中している彼には届かない。
ふと振り下ろしたほうの腕に絆創膏が張ってあるのに気づいた。
「ほら、できたよ。……水、出そうか?」
ノイズの嵐を貫通して、穏やかな声が聞こえた。同時に、目の前に皿が出される。僕が無言でそれを手に取ると、彼はコップに水を注ぎながら微笑んだ。
「今日はサンドイッチ。冷めないうちにどうぞ」
壊さないように、そっと右端のサンドイッチを手に取る。厚切りのパンから具材がこぼれないよう、慎重にかぶりつく。
「おいしい」
「お、よかった。ミニサイズで考えようかな」
料理と、彼の声でトゲトゲしていた心が元通りになっていくのを感じる。だから、だろうか。つい、言葉が口をついて出る。
「さっきの虫じゃない」
「うん。知ってる」
世間話でもするような軽さで彼は返事をした。思わず顔を上げる。
「なにも、言わないの?」
「言ってほしい?」
迷って、僕は静かに首を横に振った。
「十夜が、その感情を言葉にできるまで待つよ。きみの気持ちはきみが扱っていいんだ、他人にどうこうする権利はないからね」
……こういう、ところなのだ。
こいつの隣がいいのは、こうして急かさずに、ただ静かに向き合ってくるからだ。ほかの連中は一般論と常識を振り回して詰めてくる。思考をかき消す雑音を聞いているうちに言いたかったコトや思いが、霧のように消えてしまうのだ。こいつだとそれがない。だから、心地がいい。
「十夜はさ、日鞠さんと会話しないの?」
「ん」僕は空になった皿を手渡す。「しないけど」
「もしかして、仲よくない?」
「さあ」
その返事になにか感じたように、少し考えこむそぶりを見せる。だが、次の瞬間「そっか」と笑った彼は、普段通りの顔だった。
僕は二十二時きっかりに喫茶店を出た。鈴の音を背に、商店街から駅前の繁華街へゆっくりと歩を進める。スーツ姿のサラリーマンや洒落た服を着た女性など、なんだか人がたくさんいる。それぞれがそれぞれ好き勝手に喋っている耳障りさから逃れようと、目線をあちこちに向ける。
居酒屋の看板、片っ端から男に声をかけるキャッチ、漫画喫茶、電飾、人人、人。すれ違う人間達の視線がまとわりつく。洋ばかりの街の営みに溶け込めない。そのことに舌打ちをして、僕はその辺の自動販売機を蹴った。びくともしない。
繁華街も終わりが見えてきたとき、いきなり出てきた人影にぶつかりそうになった。フードを深く被って、その上ヘッドフォンをしているせいで周りの音が聞こえていないらしい。そのまま足早に建物と建物の隙間へ向かっていく。
たったひとりで、あんな、暗い方に行った。
(そんなの――追いかけるしかないじゃないか)
店の窓ガラスには、凶悪な顔をした僕が映っていた。
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