第7話

 *

 ボイスレコーダーの停止ボタンを押した。

 僕はため息をついた。ドッペルゲンガーといい、今回といい、また厄介事に巻き込まれたな。着物に袖を通し、帯を締める。最後に手櫛で髪を整えた。

 蛍光灯の柔らかな明かりが部屋を照らす。折り畳みのベッド、簡易の冷蔵庫、机、その上に鏡。色も何もない簡素な部屋だ。ボイスレコーダーを持って、自室を出た。そのすぐ隣の部屋が、白夜の部屋になる。不在なのは分かっているが、なんとなくドアをノックする。もちろん返事はない。ドアを開け、すぐ脇の机にボイスレコーダーを返却し、そのままドアノブを引いた。頭からつま先まで知っているとはいえ女子の部屋だし、中は見ていない。

 パタン。後ろから小さな物音がした。反射的にリビングのほうを見る。

 瞬間、ナニカが視界の端にうつった。反射的に身を伏せることで避ける。真上からベチャリと音がした。見れば卵がべったりと壁についている。

 舌打ちをした。日本語みたいな言葉を喚いている女のすぐ横を、体を低くし通り抜ける。そのまま右腕を精一杯伸ばして鍵を開ける。靴をひっかけ、体当たりの形で外に転がり出た。呪詛が追ってくる。本当に息つく暇もない。

「死ね! おまえなんか死んでしまえ!」

 鮮明になった声を合図に、僕は階下へ飛び降りた。物と物で衝撃を最小限に殺す。獣じみた動きで体全体を使って固いアスファルトに一回転すると、その勢いのまま首を上に向けた。誰もいない。夢だったのかと錯覚するぐらいの静寂だった。

 僕は今度こそスニーカーをちゃんと履き、着物を整えて、夜の街を闊歩する。母は苦手だ。会うたびに浴びせられる金切り声に頭が痛くなる。彼女から逃げるために外に居場所を求めた。夜の街をさまよって、今向かっている喫茶店の店員に出会った。あの温かみを思い出すと自然に足取りが軽くなる。

 二月に越してきたこの街はそれなりに大きい。

 大きな駅を中心に、そこから円を描くように商店街や繁華街、開発された住宅街やアパート群が広がっている。反対に駅から離れれば離れるほど畑や古めかしい日本家屋が目立つ。幸い、家の近所はコンビニもコインランドリーも揃っているし、今のところ不自由はない。

 住宅街を抜け、商店街に足を踏み入れる。通り魔事件の影響もあってか、駅から遠ざかるにつれてシャッターが目立つ。その中で一件だけ、明かりを放っている店があった。さながら電灯に吸い寄せられる虫のように、ふらりと喫茶店のドアの前に立った。

 四月下旬にもなると、街に漂っていた新しい場所や人に対する浮ついた雰囲気もなくなりつつあった。あの空気が好ましくなかった僕的には、少し過ごしやすくなったといえる。

 店内にいるアキナシを探す。キッチンにいる彼と目が会う。その表情が明るくなり、軽く片手を挙げた。僕もそれを返した。すぐに喫茶店のドアが開き、顔を出す。

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