第4話

 瞬間、生ぬるい空気が顔にまとわりつくと同時に先程とは比べ物にならないほどの異臭……シンナー臭がした。


(ペンキ?)


 そこで私は事の異様さに気づいた。いくら美術室だからといって、こんな強烈に臭いがするだろうか? 

 藤野さんが慌てた理由。それは美術室がペンキまみれになっていたから。

 チャリン、とかすかに金属がこすれるような音がした。なにか藤野さんが中でやっているのだろうか。

 ゆっくりと、それでも迅速に椅子から降りると、来た道を引き返した。もちろん白杖を携帯することを忘れない。急いで来た道を引き返し、息を切らして私は白杖を前に出す。

 自動ドアの駆動音とともに、ほどよく冷房の効いた棟内が出迎える。「すみません」と声をかけると、真正面から「はい」と返事が来た。おそらくそこが受付だろう。


「あの、美術室はどこですか?」

「学年と名前をお教えいただけますか」

「一年五組、日鞠 白夜です」

「こちらで処理をしておきますね。美術室まで案内します、少々お待ちください」


 丁寧な受付のお姉さんに救われた。はやる気持ちで押し出されるように、質問が口をついて出る。


「すみません、今何時何分ですか?」

「十六時ちょうどです」


 私と藤野さんが合流したのが十五時四十四分、そこから私の体感で六分歩いた。この時点で十五時五十分。藤野さんが異変を見つけ、私が確認するまで五分かかったと仮定する。そして早足で引き返して、入り口に到着するのは十六時前後になる。違和感はない。

 手続きの間、私は疑問に思ったことを訊ねる。


「ここって、毎回名前の記入を求められるんですか?」


 受付のお姉さんは「はい」と続ける。


「当たり前ですが、各部室には鍵で施錠がされています。その鍵の貸出時と返却時に、所属している部室、鍵番号を記入いただいています。そして、入館時、退館時も同様です。こちらは時刻と名前だけで大丈夫です」

「――受付の方ですか!?」


 会話に割って入っている声があった。聞き覚えがある。少し遠くの右側から一定のリズムで足音がする。そっち側に階段があるのかもと私が考えていると、あちらから声が飛んできた。


「日、鞠さん……?」

「吉永さん?」


 吉永さんとは同じ学級委員長だ。ただ、私にはどこかよそよそしい。声に緊張や怯えが滲んでいる気がする。女性が苦手らしいから仕方がないのかもしれない。冬夏くんの件が解決したら「なぜ」を追求するつもりでいる。


「吉永さん、どうしてここに?」

「そりゃこっちのセリフだけど……冬夏と二階にいたら窓ガラスが割れる音が聞こえたから受付に」


 私は「冬夏」の単語にどきりとした。冬夏くん、どちらの彼だろうか。


「こんにちは。日鞠さん」


 冬夏くん(B)の声だった。穏やかな、それでいて優しい声。


「ところで、お二人とも私を探していたようですが」

「あぁ」吉永さんが手を打つ。「実は──」


 話によれば、自身が属する模型部の手伝いのために呼んだ冬夏くんを送ろうとしたときに窓ガラスを割る音が聞こえたらしい。説明を聞き終え、私は口を開いた。


「美術室だと思います」

「美術室? なんでまた」

「それは道すがら聞こう。……案内お願いします」

「承知しました」


 私は吉永さんと同じように受付に至る経緯をかいつまんで説明した。美術室に向かった。

 しばらく歩いたころに、ぴたりと足音が止まる。私も半歩遅れて止まる。


「これはひどいな」


 吉永さんはそんな感想を零した。それからドアを叩いて「藤野、ここ開けて!」と呼びかけた。だが、鍵が開く音も、こちらに向かって話しかけようとする彼女の声もしなかった。


「私、鍵を持ってきますね」


 こちらがお礼を言う前に、受付のお姉さんが走り去っていく音がする。私はボイスレコーダーを取り出した。

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