小話:ある火曜日の話


「土曜日はありがとうございました」


 朝のショートホームルームが終わったあと、不意に日鞠さんがそんなことを口にした。彼女からお礼を言われる覚えはない。俺は土曜日の記憶をさかのぼるが、答えは見つからなかった。そのことを正直に白状する。


「……ごめん。記憶にないんだけど、なんの話?」

「え?」


 意外そうに日鞠さんは声を上げる。

 お互い頭上にクエスチョンマークが浮いている。


「冬夏くんだと思いましたが、違ったんですかね」

「確かに街には買い物で出てたよ。でも、日鞠さんに感謝されるようなことをした覚えはないな」


 俺の言葉に、日鞠さんは黙り込んでしまった。

 そんなに間違いがショックだったんだろうか?

 答えが出る前に、歩み寄ってくる姿があった。名前も知らない女子生徒。中等部からの付き合いであれば、さすがに名前は憶えている。俺は適当に相槌を打ちながら、その目を見た。俺じゃないどこかを見ている、浮ついた瞳。


(気持ち悪い)


 外面を理由にすり寄ってくる連中が反吐が出るほど嫌いだった。その反面『集団生活において好き嫌いは多少飲み込むべき』という人付き合いのイロハは身に染みている。

 その点、日鞠さんの我を貫く姿勢に俺は惚れ込んでいた。ああなりたいと憧れながら、この顔と世間体がそれを許さなかった。

 一限目の授業のチャイムとともに、拷問のような時間から解放される。止めていた息を吐き出すと、俺は去っていく女子生徒の背を見送った。


(そういえば)


 と首を日鞠さんの方に向ける。前方から、がらがらと音がして教師が入ってくる。構わずに彼女を見続けた。凛とした横顔、華奢な手。傷といえば家庭科でつけたものぐらいで、他にはない。

 本人は知っているかどうかは分からないが、日鞠さんにはひとつ、噂が出回っていた。

 曰く『暴力事件を起こして、ここに転校してきた』と。

 つまり俺たちと同時期に入学してきたが、実は志望校は別だった訳だ。俺はそれを信じていない。だって彼女が暴力行為をする理由がないから。そこまで短絡的な性格ではないことは、短い付き合いながら分かっていた。手よりも言葉で相手を殴っていくタイプだろう、たぶん。


「ふゆなーつ、ひとりで青春するなー。授業中だぞ、今は」


 茶化すような先生の言葉で現実に戻ってくる。くすくすとクラスメイト達の小さな笑い声に、呆れて物も言えない。が、先生の指摘はもっともなので俺は背筋を伸ばして黒板と向き合う。

 いつも通り、息のしづらい学校生活が始まる。




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