記憶2

 ――事件現場にいた不審な着物姿の人物との再会は偶然だった。

 事件の夜を連想させる夜、俺は一人歩いていた。目撃者である俺を始末しに来るのではとか、もし家族に迷惑が掛かったらどうしようとか、考えても仕方がないことばかりが頭には浮かんで消えていた。

 打撃音で現実に引き戻される。

 風と共に現れた男がガードレールに激突した。その後を追って、人影がひとつ現れる。そのまま抵抗どころか詫びの言葉を喚く男を容赦なく蹴り飛ばした。その一撃で気を失ったらしく男はピクリとも動かなかった。

 倒れた男を一瞥し、後を追ってきた人物は衣服を整える。俺は、その服が藍色の着物だと認識するのに数秒の時間を有した。

 一連の流れがあまりにも鮮やかで俺は見惚れていた。絶句していたともいう。どちらにせよ身動きが取れなかったのは事実だ。

 視線が合う。

 濃い茶色の瞳は一切動かず、俺(ターゲット)を捉えている。その視線に射抜かれて、ようやく俺の脳内回路はこの人物の正体を導き出した。事のまずさを認識し、いつこちらに向かってきてもいいように相手を注視しながら徐々に距離を取っていく。

 それなりに距離は稼いだころ、着物姿の人物は面倒くさそうに息を吐いた。逃げようと背を向けた俺の耳に、トンと軽やかに地面を蹴る音がした。

 気がついたら、空が見えていた。

 あまりに一瞬すぎて、なにひとつとして自分の身に降りかかったことが理解できなかった。地面に接している部分すべてが痛い。生理的な涙で視界が滲む。いつの間にかまたがれていて逃げることもできない。

 殺人鬼に捕らえられている。その実感に、全身から汗が噴き出した。彼あるいは彼女は、なにを思ったのか俺の襟首をつかんで浮かせ。顔を近づけてきた。獣が仕留めた獲物を食らおうとするように。


「おまえ、あいつらの仲間?」


 冷や水を浴びせられたかのように全身が固まる。明確な敵意に、俺は必死に首を横に振る。苦しいけれど、聞かなければならないことがあった。


「きみ、は」


 ――あのとき、あの犯行現場で、なにをしていたのか?

 その問いかけは最後まで紡がれることはなかった。否定した時点で俺に興味をなくしたらしく、するりと猫のように離れていく。その拍子に軽く後頭部を打ち付けたが、そんなものどうだっていい。そんなものより彼あるいは彼女のほうがもっと、ずっと痛そうだった。体温がまだ残っているうちに俺は上半身を起こし、その背に向かって叫んだ。


「ねえ!」


 歩き出したその体が緩慢な動作でこちらに向く。着物の袖が尾を引くように揺れた。言葉の続きによっては殴られそうだ。軽く両手を上げ、敵意がないことを表す。


「お腹、すいてない?」


 おかしいのは重々承知だ。それでも、言わずにはいられなかった。吉永に追撃を食らわせようとしたときも、俺と相対しているときも、ずっと傷が痛むような荒い呼吸をしていた。もちろん怪我なんて一切していない。けど、すごく――辛そうだった。このまま歩いて行ったら、倒れてしまうんじゃないかっていうぐらいに。

 相手が殴りかかってくる様子はない。代わりに、俺の目をじっと見つめてきた。不信感と真意を探ろうとする視線。少しして、目をそらされて小さく息を吐き出した。場に張り詰めていた緊張がほどかれていく。

 着物にスニーカーという和洋折衷な組み合わせに目を奪われていると、相手は男を顎で指し示した。いいのか、という問いだろう。


「よくない。でも。いいよ。きっと親切な人がいるさ」


 その人物は男とともに俺が離れるのを期待していたらしく、肩透かしを食らった表情で固まった。それから、ふっと口角を上げる。笑み、というほど無邪気ではない。もっと冷ややかで、陰のあるものだった。


「莫迦なのか? おまえ」


 呆れたような罵倒に、俺は「そうなのかも」と頷いた。

 だって、たった今この瞬間に、俺はどうしようもないぐらいにきみに心を奪われてしまったのだから。きっと倒されたときに頭を打って、大事なところがしまったのだろう。

 行こう、と手を差し伸ばす。


「いい。調子のんな」


 短い拒絶とともに手を払われる。失敗を誤魔化すように俺は差し出した手を後頭部へ伸ばした。……案の定、たんこぶができている。

 歩き出した俺の後ろを、ただ黙ってついてきてくれた。俺は顔をそっちに向け、コミュニケーションを取ろうと試みた。


「ええと、名前は?」

「十夜」


 苗字か名前か、どっちだろうか。数秒考えて、名前を知れただけでいいかと結論を出す。


「おまえは?」


 鋭い声で問いかけられる。

 決して忘れていたわけではないが、この人物は推定通り魔殺人の犯人だった。念のため、本名は教えないほうがいいだろう。かといって気の利いた偽名が思いつくわけなく、俺は自分の名前から取った。


「アキナシ」

「ふうん」訝し気に、一瞥された。「変わってるな」

「きみに言われたくないけどね」


 それから夜の街に、バラバラのふたつ分の足音が吸い込まれていく。

 これが、俺と十夜の出会いだった。



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 記憶 了

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