断章

記憶

 天体観測へ向かう途中、予想外れの大雨に降られた。折り畳み傘を持つ習慣などなかった俺は、全身びしょ濡れになりながら慌ててコンビニへと駆け込んだ。皆、考えることは同じらしい。ラスト一本で購入したビニール傘を差して、ため息をつく。この雨では、予定を変更して帰らざるを得ない。落胆を慰めるように、風が体を撫でる。暦上では立春が過ぎたとはいえ、夜はまだ冬の気配を残している。濡れた服も相まって寒くて仕方がない。このままでは風邪をひきそうだし、寄り道もせずに家へ向かおう。


 ――家路を急ぐあまり、俺は通り魔事件のことなど頭から抜け落ちていた。


 近道のために繁華街の裏、ビルとビルの隙間にある路地裏に入る。人二人がすれ違えるかすれ違えないぐらいの細い道。いつもなら怖くて通れないが、今日は別だ。ズボンが濡れるのも構わず、大股で歩いていく。よく見るようなビルの汚れも人の顔のように見える。雑念を振り払い、ひたすらにまっすぐに歩を進める。

 だが、その早歩きも止まった。

 顔を伏せ、かつ、傘を深くと傾けていたせいで気づくのが遅れてしまった。傘を軽く上げる。距離にしておよそ一メートルの距離に、二人組がいた。表通りからの明かりが逆光になっているため、黒いシルエットでしか人物を確認できない。一人は着物姿で立っていて、一人は壁にもたれかかって座っている。バケツをひっくり返したかのような強烈な雨にもかかわらず、着物姿の人は身じろぎひとつせずにただ打たれていた。それは座っている人物も同様で、ぴくりともしない。

 その異様さに、背筋に変な汗が伝う。

 引き返すべきだ、と本能が告げる。それでも事を楽観視していた俺は、とりあえず着物姿の人物に声をかけた。

「あの」

 呼びかけに返答はない。もしかしたら具合が悪くて答えられないのかもしれない。とりあえず足を踏み出そうとして、足元を流れていく水の異変に気付いた。


(赤――?)


 情報と情報から導き出された想像に、体が凍り付く。

 薄気味悪い道の終着点である大通りに、車が通る。ほんの一瞬、路地裏全体が真っ白な光に包まれた。

 俺の悲鳴は、雨音にかき消された。

 壁にもたれかかっているのは、スーツ姿の男だった。真一文字に切り裂かれた首から、勢いよく血が噴き出している。幼い頃、蛇口を指で押さえて遊んだことを思い出した。雨で薄まった血しぶきは、排水溝へ流れていく。男の身体はまだ痙攣していた。原始的な反応は、男がついさっきまで人間であったことを表していた。

 喉から息が漏れ、胃の内容物をすべて吐き出した。液体しか排出されなくなってもなお、俺の体は壊れてしまったかのように嘔吐し続けた。口の中に滞在する酸っぱい臭いが、これが現実であることを突き付ける。

 吐しゃ物が血と混ざる。俺は荒く呼吸を繰り返しながら、顔を上げた。男の見開かれた目がぎょろりと飛び出し、死後もある一点を見つめている。

 その視線をたどる。右、つまりは男の真正面、そこには誰がいる?

 早く、逃げなければならない。理性がそう訴えているにもかかわらず、俺の足は動かなかった。固まる体とは裏腹に、見えない糸を追って眼球だけが滑らかに動いていく。わかりきった解を思い浮かべながら。

 ――そこには、ただ雨が降り注いでいた。

 数秒呆けて、俺はようやく立っていた人物がいないことを認識した。あの人は取り乱すこともなく、通報することもなく、美術品でも鑑賞するように死んでいく人間を眺めていた。


(俺に現場を見られた犯人が、逃げ去った、のか?)


 異常に慣れてしまった思考が、着物姿の人物の正体についてありふれた結論を導き出す。

 だけれど、不思議なことに、直感は違うと異を唱えた。

 胸を張って宣言しようにも、あまりにも状況証拠が揃いすぎている。堂々巡りに陥った思考を裂いたのは、パトカーのサイレンだった。俺がぼさっとしている間に誰かが通報してくれたらしい。

 その後、警察署で聴取を受けた。事実と直感。どっちを信じるべきか散々迷って、俺は後者を選択した。「なにも見ていない」と。そんな稚拙な嘘がバレてしまうかとひやひやしたが、誰からも追及は受けなかった、

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