第1話(2)


 四月になったが、まだ少し肌寒さが残る。上着を羽織ってきたほうがよかっただろうかと後悔しながら俺は着物姿の人物を追っかけていた。

 我が家兼喫茶店を出て数分。十夜は猫のようにするすると人の合間を縫っていく。追いかけながら観察をしているが、十夜はあたりを見回したり、足を止めたりと不可解な行動をとっていた。

 前を歩く着物姿の人物は、ファストフード店を右に曲がる。俺は少し早足で同じように曲がった。そこから、ぐっと人通りがなくなる。繁華街の方に向かう人に逆らうように、静かな暗闇へと進んでいく。だんだんと家々の明かりしかなくなってきた。

 どうして、危険を冒してまで正体を暴こうとするのか。

 数十、数百にもわたる自問自答の答えは、常に同じところに行きつく。

 ――十夜の無実を証明したいから。

 出逢った雨の夜から、考えていることだ。テレビで報道される犯行時刻と、彼の来る時間帯はだいたい似通っている。……無実を証明したい、なんて崇高な理由じゃない。俺が、俺にできた友人が殺人鬼なのを否定したいだけだ。

 だからこうして危険を冒してまで、あとをつけている。

 不意に、前を行く十夜の足が速くなる。何の変哲のない家を、左に。俺は、少し駆け足で角を曲がった。


 いない。


 遮るものは電柱一本しかない細い一本道だ。目を凝らせば向こうが見える。だから見失うわけがない。なのにいないものだから、不安になった。小さい声で「十夜?」と呼びかけるも、返事はない。

 嫌な予感が浮かぶ。この道のどこかに殺人鬼が潜んでいる。意を決した俺が心細い灯りが照らす細い道へと一歩踏み出す。背後に――俺はかぶりを振って、恐怖心からくる妄想を追い払った。

 ブロック塀とブロック塀に囲まれた無機質な小道。十夜どころか、小動物の気配すらしない。不気味なぐらいに、しんと静まり返っている。

 またか、と俺はため息をつく。尾行に気づいているのか途中でよくまかれる。この夜の散歩が、腹ごなしのための散歩だったら申し訳ないことをしていると思う。


「――お前」


 ふいに背後から話しかけられ、勢いよく肩が跳ね上がる。

 この男女どっちつかずな声には覚えがある。いや、つい数十分前までは会話をしていたのだ。

 バクバクと勢いよく音を立てる心臓を、深呼吸でなだめながら俺は振り返った。


「何してんの?」


 そこに立っていたのは十夜だった。着衣の乱れはなく、もちろん、色白な手に物騒なものも持っていない。センチメンタルな気分になった俺が今、最も会いたくない人物。数回目の深呼吸の末、ようやく俺は口を開いた。


「ど、どうやってここに?」

「別に。家を囲うように道があるから、左に曲がってここまで戻ってきただけ」

「……実は十夜さん、足が滅茶苦茶速かったり?」

「ない。お前がちんたらしてるだけ」


 バッサリと言われてしまった。やっぱり俺がどんくさくて尾行はまかれていたのか。

 前髪をかき上げ、十夜は「なんでもいいけどさ」と犬猫でも追い払うかのように片手を振った。


「さっさと帰れよ。最近危ないぞ、この辺」


 通り魔事件のことを言いたいのだろう。まさか本人からその話題が出てくるとは。息が詰まる。ここで聞かなければいつ聞くんだ、と自分に言い聞かせた。

 瞬間、胸ポケットが震える。

 電話だ。


「もしもし」

『ああ、兄さん?』

「……何?」自然と声のトーンが低くなる。「今取り込んでんだけど」

『母さんが呼んでる、早く帰って来いってさ』


 怪しい。

 だって、今の今までこの時間に歩いていて呼び戻されたことはなかったのに。訝しむと、通話相手は続けた。


『待ってるから。じゃあ』


 俺の返答も待たず、ぷつりと切れる。

 やり取りが聞こえていたのか、十夜はさっさと歩きだしてしまった。その背を追いかけて、すぐにでも質問を投げかけるべきだった。

 ――きみは、なにをしていたのか、と。

 が、俺の足は動かない。遠ざかっていく背を見つめることしかできなかった。


(いくじなし)


 自嘲し、俺は帰路を急いだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る