第17話 電話
ディナーの夜から三ヵ月が経過したある日、いつものように会社に電話があった。
「はい、ベビーハウスです」
「赤ん坊を育ててもらえるんですか」
「ええ、預りますよ」
「あのー、今六ヵ月目なんですけど」
「はい、妊娠六ヵ月目ですね」
「いえ、生後六ヵ月です」
生後六ヵ月になって育てられない。児童虐待か?
「男の子ですか、それとも」
「はい、男の子です」
それでは、詳しくお話を伺いますので、お子さんと一緒に、二日後の午前一〇時にお出で願えますか」
「はい、わかりました。うかがいます」
何か、嫌な感じがした。
二日後、赤ん坊を抱いてきたので、すぐにベビーシッター室に運ばせた。母親とじっくり話をするためでもあるが、赤ん坊に異常がないかを確認するためでもある。
確認する事項は、結構ある。先ず、ベビー服は清潔か。体に、目で見て痣がないか。清潔な状態に保たれているか。少なくとも今の季節なら、最低でも一日おきの入浴が必要だ。
極端にやせていないか。栄養の偏りは、見られないか。発育は、年齢相応か、刺激に対する反応は正常か。その他気がついた事はメモにされ、すぐに私の元に届けられる。私は、それに目を通して、質問する内容を考える。
メモには、痣などの記載はない。衣服は古着、風呂には、二、三日おきに入っていると思われる。目で見る限りの栄養不良はない。やや、発育が遅いか。あるいは、刺激に対して反応が乏しい。(軽度のネグレクト?)
特記事項:性器の部分に手術痕あり。
何だ、このケースは?
「母子手帳を見せて下さい」
母子手帳は、重要な情報源だ。これを所持していないとすると、その子の出産は、かなりヤバイ状況で行われたことを意味する。医師記載欄:出生時、両性具有を認め、男子への性別決定手術を行う。
これは難しい。思春期になってから性自認の問題が生じる恐れがある。
「生後、すぐの手術はどうでした」
「順調で、特に問題はありませんでした」
「性を男子にしたのは」
「女性器に比べて男性器のほうがそろっていたので」
私は、質問を変えた。
「六ヵ月程度の赤ん坊であれば、普通毎日、入浴していますよね。昨日は入浴されましたか」
「いえ、昨日は忙しかったもので」
「今は、保育所ですか」
「はい」
「保育所からの連絡ノートはありますか」
この母親は、あまり目を通したことがないようだった。ノートの欄には、
「衣服が汚れているときがあります。清潔な衣服をお願いします。風呂には、毎日入れていますか。そろそろ温かくなります。肌も清潔に保ちましょう。やや、以前と比べて反応が大人しくなった気がします。働きかけを多くしてください」
と様々なことが記載されていた。
私は、母親は、鬱状態で、子どもは軽度の虐待だなと考えた。
「お母さんは、今一人で育てているんですよね。育児は大変でしょう」
俯いていた母親が、こらえていたものを吐き出すかのように泣きはじめた。これは、しばらくでも、母親から離したほうがいい。
「お給料は、いくらですか」
母親が答えた額の低さに、この国の隠れた貧しさを見た思いがした。
「児童相談所などに相談されたことはありますか」
「いいえ」
ないだろうなと思った。こういう母親が相談できるように、早朝や夜間も開設するというサービスがなければ、問題は、いつまでたっても表面化しない。望ましいのは、里子に出すことだが、児童相談所での一時保育でもいいか。重要な問題は、母親が一人での子育てに、疲労して軽度の育児放棄になっているということだ。こういう場合には、母親の重荷を一時引き受けるサービスが必要だ。
とにかく、こういうケースは扱いが難しい。公的なサービスに委ねるのもいいのだが、公的なサービスが始まるには、時間がかかるので、母親が絶望して悲劇になることもある。
私は、再度、母親に養子に出す意志を確認した。やむを得ないと言う。精神科の医師は、鬱の患者に自殺願望が見られたときは、絶対に自殺しないようにと約束させる。それと同じく私は、この母親に、子どもの受け入れ先は、必ず見つかるので、それまで、絶望的にならないことを約束させた。○Tケースと名付けた、
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