第13話 私の過去

 駅から自宅までの道を歩いていると、心の中に奥深く閉じ込めておいた記憶が蘇ってきた。母は、私を産んですぐに亡くなり、私は、母の友達で同じ頃に死産した女性に、三歳になるまで育てられた。私は、その人を実の母だと思っていたと後から聞かされた。

 それからは、里子に出されたり、施設に入ったりと落ち着かず、中学生になって、母方の祖母のもとに預けられた。祖母は、息子夫婦と暮らしており、その夫婦にも二人の子どもがいて、生活は苦しかった。あまり楽しい思い出はない。高校生の時は、就職しようと考えていたが、恩師の強い勧めもあり、大学に進学した。

 大学は、期待していたほどのものではなく、生活のためアルバイトに明け暮れる日々を過ごすうち、酒を飲むようになって、私の生活は荒んだ。

 Kと知りあったのは、大学で、互いに留年をして話し相手がいなくなったからだ。Kは、男気にあふれ、妙に私と気が合った。我々が、未来のKの妻になる人と知り合ったのは、そのような時だった。

 彼女は、同じ市の女子大に通う学生だった。Kと飲むために、私は、一足先に飲み屋に向かっていた。Kは、後から来ることになっていた。繁華街を歩いていると、女性がやくざにからまれていた。

 相手は、二人だった。通り過ぎようとした時、

「助けてください」

と悲鳴のような声がした。

腕力には、全く自信がなかったものの背だけは人並み外れて高い私は、殺されることはないだろうと観念して、やくざの言いがかりに割って入った。

「誰だ、てめえは」

「通りがかりの者だけど、女に因縁をつけるのはよくないな」

後は、お定まりの喧嘩沙汰になった。私が、羽交い締めにされて、殴られているところにKが、来た。Kは、中肉中背だが、腕っ節が強く、喧嘩慣れしていた。そうして四人でもつれ合っていると誰が呼んだのか、四、五人ほどの警官が走って来た。やくざは素早く逃げて、我々二人と女性が、その場に残っていた。

 その後は、パトカーに乗せられ、警察署で事情聴取された。警官の態度が横柄だったので、私は、

「何だ、その態度は、我々は被害者だ。おまけに大学生だ。早く、加害者を連れてきて、目の前で謝罪させろ」

と大声で怒鳴った。年を取った警官が、まあまあという感じで、

「やくざと喧嘩して、大した怪我をしなかったのは、手加減をしてくれたのだろう。まあ、命があっただけでも、よかったな」

と言ったが、私は、そのとおりだと思って、改めてぞっとした。

 警察から解放されて、我々三人は、顔を見合わせた。彼女の名は、M子といった。私とKは、飲みそこねたので、

「どこかに行くか。K」

と誘った。すると、彼女が、

「すみません。私の事でご心配をおかけして、あの、償いと言ってはなんですが、これから飲みにいくのなら、私に払わせてください」

と言ってくれた。二人に断る理由はなかった。

 我々は、安いだけが取り柄の行きつけの居酒屋に行った。入る前に、

「あんまり、女の人は、出入りしない店ですが、いいですか」

と私は、念を押した。

酒の肴に「トンソク」を頼んだ。女は、初めて見たらしく、

「何ですか、これ」と訊いた。

「あれ、豚足を知らないの。豚の足だよ。ほら、よく見ると、爪がついているだろう。ここが美味しいんだよ」

彼女は、きゃーという声をかろうじて抑えていた。こんなものを食べる人間がいるのだろうかという顔をした。

 Kも調子に乗って

「次は、コブクロ」

と言った。

「コブクロって何ですか」

「食べればわかるよ」

おそるおそる食べた彼女だったが、

「コブクロって、コリコリしてるんですね」

と感想をもらした。そこで、Kは、

「コブクロは、子宮です。開高健によれば、妊娠している豚から子宮を取りだして、それをぼこぼこに叩いたのが、一番美味しいというけど、まだ食べたことはない。器に、胎児の子豚の眼が見えたりして、かなりグロらしいけど」

彼女は、変な男達に救われたと思ったようだ。だが、恩人でもあり、自分だけ、一人では帰ることもできないと思っていたようだ。

 何がどうなったか、二人は酔っ払って、その女性と別れた。Kは、少し気に入ったらしく、その後、付き合っていたようだった。 二人の仲は急速に進んだらしい。大学を卒業してからも、Kとその人は付き合って結婚に到ったというわけだ。

...私の恋人 

 私には、中学校の頃から好きな女子生徒がいた。高校生になっても付き合っていた。しかし、大学生になると、自己破壊願望がつのり、自分の周囲の者を敵とみなすようになっていった。自然に、彼女との距離は開いていった。そして、大学を卒業したその年、彼女から電話があった。喫茶店で会うと、

「私、結婚を申し込まれているの、どうしたらいい」

と切り出された。思いもよらないことだった。

「僕は、まだ結婚は早いとは思っていたんだ。もう少し待ってくれないか」

「もう少しって、どれくらい。十分、待ったような気がするんだけど」

具体的には、言えなかった。自分が果たして、結婚生活を維持していけるのかも分からなかった。自分の中に眠っている小さなこどもが、騒ぎ出すのではないかという気持ちもあった。

「どれくらいって、なかなか言いにくいが……」

「あのね、女は、いつまでも待っていられないのよ。もし、待ったとしてあなたが結婚してくれなかったら、私はどうなるの……」

 今でも分からない。そこで、結婚を申し込めば良かったのだろうか。だが、結婚して、子どもが産まれて、妻が子どもの世話をしているときに、私は、自分はそんなふうに愛情をかけられなかったと言って、逆上するのではないのかという予感があった。私は、身を引いた。それが、私が今に到るまで、独身でいる理由の一つである。

...Jと

 人を自殺にまで追い込んだということは、職場でも私の態度に表れていたようだ。昼休み、いつもの公園でぼんやりとしていると、第一課の女の子が声をかけてきた。

「どうしたんですか。この頃、元気がないですね」

振り向くと、Jだった。

「いやあ、分かるかな」

「そりゃあ、分かりますよ。Sさん、感情がすぐ顔に出るから」

と言われた。そうだったのか、喧嘩っ早いからなと納得した。

「人間って、難しいですよね」

ん、この子は、あのことを知っているのか。まさか、そんなことはないだろう。

「電話の声が大きいんで聞こえてきたんですよ。ああ、ごめんなさい。人の秘密を探ろうとは思ってはいません」

私は、若い人の考えが聞きたくなった。

「今日は空いているかい」

「ええっ、空いていますけど」

彼女は驚いていた。そうだろうな、こんなおじさんに声をかけられたのだから。私は、七時に、居酒屋を指定して会う約束をした。

 職場に戻り、パソコンに入力していると、モニターに育てられないからと赤ん坊を殺した母親への判決が下されたとのニュースが流れていく。児童虐待などは、あまりに多すぎて珍しくもない。愛されない子ども達、愛されない妻、そして愛されない夫かと苦笑した。

 仕事が終わり、居酒屋への道を歩いていると彼女と合流した。二人で、暖簾をくぐると、親父がおやっという顔をした。まあ、私が女の子を連れてくるのは、滅多にないから、無理はないなと思った。

 話は、面白かった。最近の子の歌から映画からゲームから、名前だけは知ってはいたが、完全におじさんだということを思い知らされた。

 二人とも、少し酒が入ったところで、私は親父に

「ちょっと、座敷をかりるよ」

と言った。親父は、怪しいという目をしていた。

「大丈夫だ。何にもないよ」

そう言うと、女の子がおかしそうに笑った。

座敷にうつって、

「どこまで知っているか分からないけど、俺の言葉が原因で自殺をしようとした人がいるんだ」

「そうみたいですね。詳しくは知りませんが。でも、Sさん、ずいぶん焦っていましたよね」

「それはね、人が死ぬかもしれなかったからね。責任は感じるよ」

「私で良かったら、話してください」

うーんと私は唸った。自分で、誘っておきながら、いざ、他人の秘密を漏らすことに、決心がつかなかった。でも、彼女なら、Kの妻の気持ちが分かるかもしれない。それが知りたかった。私は、覚悟を決めた。

「これは、秘密だ。他人に話されては困る」

彼女が、大きくうなづいた。

「あのね、ものすごく簡単に言うと、「嫁は元男」というドラマなんだよ」

「ドラマ?」

「そう、ドラマ。人間ドラマだ。結婚して八年がたって、妻が性同一性障害でMtFだと気がついたという話さ。夫は、そんな大事なことを何故話してくれなかったのかと怒っているし、抱く気にもなれないと言っている。夫は、それでも好きで、別れたくない。妻は、何故話さなかったと問い詰められて、リストカットしたんだ」

そう、言い終わって、私は大きく溜息をついた。喜劇なのか、悲劇なのか、わからない。

 彼女は、静かに聞いていた。目に涙を浮かべていた。

「同じですね。そういうことが、私の友人にもありました。Sさんは、ご存じでしょう、私が、MtFだということ。これからますます、GIDの人が増えて、そういう事も起こるんでしょうね。でも、そうでないカップルもあります。一番良いのは、付き合いを始める前や、結婚する前に、自分が何かということを話せる世の中になれば、良いんですけどね」

 ああと私は気がついた。つまり八年分の想いがつまっているから、その重みに夫婦が耐えられなくて、こんな結末になったのじゃないのか。別れるにしろ、そのまま生きて行くにしろ、結婚するからには、大事な事を隠していると、それが暴かれたときの傷みで、人間が破壊されるんだと。

 私は、又大きく溜息をついた。

「ずいぶん、大きな溜息ですね」

「そうだよ、人生を理解する度に、溜息が出るんだ」

「Sさんは、私のことなんか、どうなんですか」

「ん、どうなんですかって。どういうことかな」

「いえ、いいんです」

 まさか、この子は、私に好意を持っているんではという予感がしたが、その日は、それだけだった。


 二ヵ月後、「八受け」ケースに女児が生まれた。心配していた妊娠糖尿病も治療が功を奏したのか、母子ともに健やかで現在のところ問題はない。

 このケースには、どのケースが相応しいかと考えていると、あの○貧ケースが、浮かんできた。少し頼りがない気もするが、Gでも、愛している者同士なら、赤ん坊も愛してくれるのではないかと考えたのだ。私は、Kのことがあってから、夫婦とは何か、愛情とは何かと考え続けて来た。これだけ、人を縛ってきたものがなくなって、皆が好きなように(しかし、他人に迷惑をかけてはいけないが)生きる時代になったのだ。同性愛に厳しかった米国でも、連邦裁判所が同性婚を認めた。日本でも、同じようになるのに、そうは時間はかからないだろう。

 私は、○貧ケースに電話をした。○貧ケースは、電話を喜んでいたが、一つ面倒なことがあった。あのカップルは、予想通り○貧で、当初の試算額では、支払えないことが分かった。

 私は、代表に掛け合った。

「殆ど利益が出ませんが、どうでしょう」

「あのなあ、一般社団法人には、利益は生じないんだよ」

と言って、

「その代わり、別なケースで頑張ってくれ」

そう言って、にやっと笑った。鬼瓦のような顔が笑うのだと、私は、この会社に入って初めて知った。

 再び、○貧ケースに請求額を連絡した。彼らにとっては、二百万円という金額は、大きいはずだ。だが、赤ん坊が欲しいなら、それくらいは支払うべきだとも思う。借金して金を工面するなら、今回は見送って欲しいと付け加えた。それでなくとも、育児というものは、養育者にストレスを与える。斡旋する赤ん坊を貧困の中に送り込むのは、絶対に避けたい。

 振込が確認された。あの二人が、どうやって金の工面をしたのかは、確かめようが無かった。この仕事は、クライエントの姿勢に頼るところが大きい。最後は信頼する、あるいは祈るしかない。

 私は、なぜ今の仕事をしているのだろうか。私のような人間を増やしたくないからだ。望まない妊娠で産まれた子が、愛されない不幸に陥るのを避けたいからだ。人が愛されないということ以上の不幸がこの世にあるとは思われない。

 幸いというべきか、あるいは、私が知らないだけなのか、今まで斡旋した赤ん坊が虐待されたり、あるいは養育できないという情報が寄せられたことはない。営利でやっているとうそぶいてみても、本音はそんなところだ。

 引き渡し日に、二人は喜んで来社した。来るときに、赤ん坊のおむつとミルクだけは、持参するように付け加えた。念のため、私は、赤ん坊の育て方について、二、三質問した。

「赤ん坊のげっぷを出すときは、どうします」

「離乳食は、いつ頃から与えます」

こんな簡単なことが分からないようでは、育てる資格はない。幸い、二人のうち一人が、保育士なので、子育ての知識は十分だった。ベビーシッターが赤ん坊を抱えてきた。

 赤ん坊の泣き声は、世界を救うとさえ思うときがある。戦争や大規模災害で大勢の人が死んだとき、ひとの心を和ませ、明日に生きる希望を生み出すのは、赤ん坊の何気ない笑みと泣き声だ。

 私は、彼らに女児を渡した。別に脅すつもりはないがと言って、私は、

「この児を不幸にするようなことは絶対にしないで下さい。もし、私が、それを知ったら、あなた達、ただではすみませんよ」

とくぎを刺した。

二人は、真剣な顔をしてうなづいていた。エレベーターまで、赤ん坊と二人を見送ると、なぜか、涙がこぼれた。

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