第12話 奇跡
その時、どこから風が入ってきたのか、普段なら消えるはずのない百目蝋燭の炎が、一斉に揺らぎ、金森の後の一本を残してふうっと消えた。一峰の影が小屋の舞台から天井にかけて、揺らぎながら大きく映し出された。すると暗くなった小屋の天井辺りか、恰度金森の影の上に、何やら青い人影が見えた。会衆は驚きどよめいた。
「伴天連の魔法か」
「見たぞ、あれは聖母マリア様じゃ」
「南無阿弥陀仏」
慌てて座の者達が、蝋燭に火をつけに回った。
「マリア様じゃ、マリア様が現れたのじゃ」
聴衆の声が重なり小屋の内に響き渡った。芝居小屋が又明るくなった。
演壇にいた神父は、マリアが顕れたことを確信し再び語り始めた。
「金森様、ありがとうございます。ヨハンナ岩永も、その家族もそして津和野で亡くなった総ての信徒達も喜んでいると思います。神の御名によりあなたが許されたことを申し上げます、ここにお集まりの皆様も許されました」
金森は娘のまりの側にいて、抜き身の脇差しを手にしたまま立ち尽くしていた。娘が己の体を楯として金森を庇ってくれようとは思いもよらない事だった。そしてあの青い影は、何だったのだろうか。気の迷いではなかった。ここにいる者が全員、目にしていたのだ。一体、何が起きたのか彼には分からなかった。
まして金森が許されることなど、あろう筈がない。金森は許されぬ者なのだ。金森は不覚にも涙をこぼした。あなたのそばにいますと言った声は、亡くなった妻の声のようにも思われた。そんなに肩肘を張らなくていいのですよと言ってくれているように思われた。
御役目の時に、何一つ言わないでくれた妻の優しさが思い出された。そこに居合わせた人の間から、すすり泣く声が聞こえた。死ねと言った人たちも、心底、金森に死んで欲しいとは思っていなかった。罪を詫びて欲しかったのだ。
そのすすり泣く声は彼の娘とヨハンナ岩永だけのものではなかった。小屋に集まった信徒だけでもなかった。この地で行われた切支丹の弾圧に、心を痛めていた者がいたのだ。藩の御用であったかも知れないが、人として、あれほどの仕置きがなされたことに心が動かされない筈がなかったのだ。
小屋全体に、怒り、哀しみ、許しの感情が渦巻き、すすり泣く声と、許しの祈りの声が重なりあっていよいよ高まりを見せた。金森は、思い出したかのように、手にした脇差しを鞘に収めた。騒ぎが冷めやらぬまま、金森は娘とともに外に出た。夏の夜は、いくらか過ごしやすくなっていた。
その翌年の夏も暑い夏であった。あのビリヨン神父が金森のもとを訪れた。金森は二十数年来所持していた書付等を見せたが、既に焼却したものも多かった。金森は、神父から津和野藩の仕置きについて聞かれるままに話し始めた。明治の御代になり、突然、長崎の切支丹が本藩に流罪されると聞いたこと、そして己がその御用をつとめることになった時の驚き、また、予期していたように僧侶や神官の説得が功を奏しなかったこと、最後には拷問をせざるをえなかったことなどを堰を切ったように話した。
金森は、それが御役目であるということで、話すのをためらっていたのだが、新政府の態度はどうであったろうか。列強の圧力に屈して、その態度を変え、まるで切支丹禁制の掟などがなかったかのような変わりように、金森始め説得方の一同は、翻弄され続けたのだ。
ビリヨン神父は、金森の話に耳を傾けた。ここにもあの迫害で苦しんだ者がいたのだということを再確認した。金森は、全てを話し終わって、ふと昨年の三国屋での出来事を思い出した。果たして自分は許しに値する者だろうか。許されたと言われたが、あれだけの人を死に追いやった自分を誰が許せるのか。それを耶蘇の教えでは、神というのか。
金森は、己を罪無き者であるとは思わなかった。結果として切支丹を多数殺害したことを、仕方がなかったのだとも言わなかった。しかし、それならば、敢えて問いたい、金森達の御役目とは一体何だったのかと。
津和野藩の藩士としての罪であるなら、「君君足らざれども臣臣たる可し」という教えに従って裁かれたいと考えていた。金森達は、藩命により御役目大事の立場から身命を賭して励勤したが、死人を出してもその役目を全うすることはできなかった。不忠の極みにして如何なるお咎めをも甘受せざるをえないものであった。
そうであるなら、先ず福翁の言行はどのように裁かれるべきか。寛典論と言いながら、その実が上がらなかったので、何としてでも結果を出すことを命じ、又、天皇様の命によってと言い、異宗徒に饗応し、後々までも金子を送った等の行いは腑に落ちぬものがあった。
福翁が第二次長州征伐の際、長州を助けようとしたことは、賞賛に値することであった。その功績によって、高位に登ったことも異とするものではなかった。しかし、浦上四番崩の異宗徒の仕置きの主な責めを負うは、福羽美静そのものではないか。
切支丹を棄教させるために道理を以てするは、蓋し卓論であるが、我等のやったことを見れば空理空論である事は明白である。我らの説得が拙かったことを否定するものではないが、半年に僧侶、神官、藩儒と続けて改心を迫っても棄教しない者を果たして言葉のみで、棄教させることは出来たのだろうか。
今、世の中には、福翁の寛典論により耶蘇宗徒共が極刑を受けるのが阻止されたと伝えられているが、これは甚だしい誤りで、むしろ、それによって、死に到った者が多いと言わざるを得ない。翁は、維新の嵐を生き延びたせいか、
「殺めし者は活かすこと能わざれば殺めたるべし。然れど政の妨げとならば、切支丹をも殺すべし」
と述べている。これが翁が言うところの教導説諭の本心ではないのか。
福翁の高慢放言と、さらにその尻馬にのった木戸候の浅慮がこのような惨事を惹き起こしたことも考慮すべきではないか。若し裁かれるならば、福翁も人としての罪を裁かれるべきであると思った。
三国屋での講演が成功したビリヨン神父が次にしたことは、教えに殉じた、あの三六名のために慰霊碑を立てることだった。金森は、土地の取得と慰霊碑建立のための資金集めに奔走した。その時、金森は、信者になったのかと色々な人に尋ねられた。迷っているというのが、彼の答えだった。
明治二十六年八月、蕪坂峠の千人塚に追福碑が建立された。真夏を過ぎたとは言え、まだ日中の暑さは厳しく、時折吹いてくる涼風にミサに参列している人々は救われた思いがした。だが、碑が建てられ慰霊祭が行われたその場に、金森の姿はなかった。己が死に追いやった人々の前になど立つことは許されないと考えたのである。
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