第11話 聖母

 「安太郎さんという人は、三尺牢に入れられました、それはとても小さな牢屋です。三尺四方の板で囲まれ、一面だけが、格子になっています。勿論、そこで座ることも寐ることもできません。津和野の寒い冬の中におかれました。安太郎さんが、寒さの中で、今にも死にそうなその時に、青い着物を着て青い布を被った女性が、毎夜毎夜安太郎さんのところに現れました。聖母マリアです。奇跡が起こったのです。さらに改心者は、法心庵の床を剥がして床下に降りました。床下を通って、夜は、信徒の居る光琳寺に出入りしていました」

「聖母マリア様が現れたのじゃ」

「マリア様の話は本当の事だったのか」

聴衆のざわめきが続いた。それに続いて、

「サンタマリア、サンタマリア」

と唱和する声が続いた。

 「サンタマリア」という祈りの声に、二十年前の光琳寺の光景が蘇ってきた。あの時もこのようにして、祈っておったな。金森は、小屋に集まった者の後ろ姿に、三尺牢で亡くなった和三郎や安太郎を見た様な気がした。気のせいじゃ、耶蘇宗徒が多く集まっているからであろうと気の迷いを振り払おうとした。

 金森は、講演会の知らせが、今日の午後からなのに、なぜ小屋に人があふれているのかと不審に思っていたが、近在の耶蘇宗徒が詰めかけて来たとなれば頷けるものがあった。

 しかし、金森には信じられなかった。安太郎の三尺牢の上に聖母マリアが出現したこと、異宗徒達が誰にも知られず夜な夜な会っていたことなど、そのような話を同役の者からも、牢番からも聞いたことがなかった。

「ヨハンナ岩永さんは、その時家族と一緒にいましたが、父上と兄上を亡くしました。今日、ここにおいでです。外の廊下にいますので、お呼びします」

 会場は騒然となった。あの弾圧を生き延びて、ここに立つ女がいたなどと誰が想像できただろう。首に十字架をかけ、粗末な着物を着た四十に近い婦人が、神父の元に歩み寄った。ヨハンナ岩永だった。金森は咄嗟には誰なのか思い出せなかった。しかし、岩永せきという未だ十一歳の女児がいたのを思い出した。金森は、彼女の口からどんな言葉が飛び出すのかを見守った。

 「岩永せきと申します。今から二十二年前、浦上村から津和野に連れてこられ、光琳寺で改心を迫られました。そこで、私は父と長兄茂三郎、次兄吉三郎を亡くしました。惨いお仕置きでした。その時のお役人の名は、金森一峰と言いました。もし、あなたたちの中でそのお役人、金森一峰なる人をご存じであれば、お教え下さい」

 それを受けて、又、ビリオン神父は語り出した。聴衆は静まりかえっていた。

「その時の吟味役の名は金森一峰と言ったそうです。そして、その金森さんは、未だこの地で生きておられると聞きました。私は、金森さんに、罰を与えようなどとは考えていません。ただ、金森さんに、この会場には居られないでしょうが、何故そのような酷いことをしたのか、そしてそのことについて、ご自分ではどのように思っているのかをお聞きしたいのです。皆さんの中で、金森さんを知っている方が居られると思います。もし、宜しければ金森さんに伝えていただきたいのです。あなたは、罪を犯しました。しかし、其の罪が消えない訳ではありません。あなたが己が罪を償いたいと思うのなら、是非私どもにお便り下さい。私は、これから布教のために、一月おきに津和野に参ります。次に来たときに、よろしければ金森さんと話をしたいと思います。もう一度、話しますが、金森さんを罰したり、罪に問うというのではありません。ともに、話したいのです」

 金森は自分に視線が集まるのを感じた。ここまで言われて、名乗りを上げないのは卑怯者と謗られることを恐れて立ち上がった。

「余は金森一峰なり、逃げも隠れもせむ」

会場がどよめき、ひそひそと話す声が拡がっていった。

 ビリヨン神父は、一瞬息をのんだ。まさか、この場に金森がいようとは想像できなかった。興奮を隠しながら、神父は、先ず金森に

「名乗りを上げてくれたことに感謝します」

と言った。

「私は、あなたを罰するために来たのではありません。あなたを許しに来たのです」

金森は、どう言って良いものか分からなかった。金森が許されるだと、誰が許すのだ。あれは、御役目だったのだと言おうとして言葉にならなかった。

 「金森様、私とヨハンナ岩永が話した、今から二十年前のことに間違いはないでしょうか」

「三十六名が亡くなりし事、事実なり」

「あなたは御役目としてなさったのですね」

「いかにも、余はその昔、津和野藩御預異宗徒御用係なり」

小屋の中がざわつき始めた。

「ありがとうございます。あなたが、乙女峠の迫害の事実を認めて下さったことに感謝します、」

「耶蘇教徒を殺したのか、三十六名も、切支丹というだけで」

とそこにいた信徒達は騒ぎ始めた。

「死ね、死んで詫びよ。人殺し」

 殺気だった声が響き始めた。ビリオン神父が考えていたのとは、違う方向に事態が進む様に思われた。神父は、騒ぎを静めようと話し出した。

「金森様、御役目だったことは分かります。しかし、御役目だったということで、済むのでしょうか」

「何を言いたいのだ]

「人として、金森様は、あの信徒達三十六名が亡くなったことを、どのように考えていますか」

「地獄に堕ちろ。人殺し」

騒ぎは続いていた。

「人としてです」

人として何を為すべきか分からざる故に、ここにこうして来たのだと言いたかった。

 金森は、考えることや話すことに厭いていた。

「余、切支丹三十六名を死に至らしめた責めは、腹切って償い申す。御免」

と言って、金森は、座敷に座り直した。ここで自裁するのも、又一興なり。思い残すこと無し。

「違います。違います。私達は、あなたに死んでほしくはありません。むしろ生きて欲しいのです」

その時、死ぬことはありません。あなたは十分苦しみましたという声と神父の声が重なり合って聞こえた。誰の声だろうか、金森は周りを見渡した。他の者には聞こえていないようだった。

突然、

「父上」

と呼ぶ若い女の声が聞こえた。いつの間に、この小屋に来たのか、それは故あつて、今は他家から戻つて来ていた金森の娘まりであった。

しかし、娘まりが、何のためにここへ来たのかと金森は自問した。知らぬことと思っていたが、まりは己の生い立ちを誰かに聞いたのであろう。そうであれば、自分が生まれたときに何があったのかを知りたいのは、人情であり、やむを得ぬことかと納得した。

 「父上、お覚悟を、腹を召されませ」

養女にと貰い受けた娘の言葉が胸に刺さった。

 そうだ、あの婦を死に追いやったのもこの自分なのかも知れない。娘まりに、覚悟をと言われて金森の心は落ち着いた。持参した脇差しを抜いて懐紙を巻いた。周りにいた者が、驚いて身を引くと金森の周りに人の輪ができた。

己の生い立ちを知った娘は、実母の仇を取りたかった。だが、そうすることは、父を死に追いやることであった。育ててくれた父、老い先短い父に、そのような事を言う自分が許せなかった。

「私もお供します」

金森は、思いとどまった。

「お前が死んで何とする。お前も人の親ではないか」

 また声がした。私は、あの時、光琳寺にいました。今私は、あなたのそばにいます。あなたの苦しみは私の苦しみです。遠くから誰かが呼びかけているような声だった。

 娘のまりが、父の側に立った。神父が続けた。

「金森様、あなたは、今己の罪科のために自害為されようとしました。あなただけが罪を犯したのではありません。あなたはこの国の掟に従っただけなのです。あなたは犠牲者なのです。他の方々も罪を負っています。でもあなただけが、今日ここに来て下さいました。とても勇気のいることです。我々キリストを信じる者は、許しを与える者です」

 いつの間にか、ヨハンナ岩永が壇から降りて金森の近くに歩み寄っていた。

「父と兄の仇」

また、あっという声がして、人々が後ずさり、小屋全体の空気が凍り付いた。彼女は、懐剣を手にして立っていた。金森は、その刃を己が胸で受けようと立ち上がった。それで、いくらかでも罪が償えるのであれば、満足だった。

 突然、彼女が手にした短刀を防ぐかのように娘のまりが、ヨハンナ岩永と金森との間に入った。

「私は、あの光琳寺で生まれた者です。父が養女として育ててくれました。どうか、父をお許し下さい」

「あなたは、我らとともに、あの牢に入っていた赤児か」

ヨハンナ岩永も光琳寺で赤ん坊が生まれたことを覚えていた。岩永は、呆然とまりを見ていた。岩永が手にした短刀が床に落ちた。彼女は放心した様に立っていた。

 神父は、気を取り直して話し始めた。

「もう、これ以上の殺生をしてはなりません。悲劇を終わらせるのです。ヨハンナ岩永、あなたの苦しみは分かります。しかし、それを新たな罪としてはいけません。金森様、あなたは、罪を悔いています。金森様の娘さま、申し訳ないことをしました。お許し下さい。私とヨハンナ岩永はともに、金森様の許しが得られるように祈ります」

 許すことが神の御業なら必ず奇跡が起こることを信じて、神父は祈り続けた。金森は、どうして良いか分からなかった。

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