第7話 養女
金森には子がなく、妻に二親を亡くした女児の話をすると是非にと望まれ、その赤児を貰い受け養女とした。まりと名付けたのは、その母親が「まりあ」と呼んでいたことに由る。妻に久しぶりに笑顔が戻った。家の中も明るくなり、赤児の話が夫婦を再び結びつけた。貰い乳で育ったその子は、丈夫に育っていった。
拷問の末、切支丹達を結果として死に至らしめるという事は、御役目ではあったが、それを為す者の精神を蝕むものであった。互いに武器をとっての勝負ならまだしも、相手が身一つの百姓であれば、ただ命を奪うだけの仕置きに、崇高な目的を見つけることはできず、説得方の役人は、義務感のみでかろうじて御役目を果たし続けた。
だがこの時、金森一峰や御預異宗徒を取り巻く人々は「見て見ぬふり」をしたり、「無力感」を感じてはいなかった。何より、一峰がしていることは藩命に由る御役目であったのである。人々が案じたものは、無念の死を遂げた魂の行方であった。
このように日本各地で、切支丹への迫害が続いていたが、これは単に日本国内だけに留まる事件ではなかった。明治三年一二月には、浦上の切支丹について、英国代理公使アダムスより待遇改善の申し入れがあった。
また、外国公使からの抗議を受け、真相を解明するために、明治四年五月、外務省は職員を派遣し、日本各地の預入切支丹の処遇について調査を行った。津和野藩には、外務権大丞楠本正隆他二名が視察に訪れた。
津和野の御預異宗徒御用係説得方金森は、仕置きについて全てを語った。視察の一行は、光琳寺、法心庵を回った。御預の各藩にも同様に視察があり、御預異宗徒取締の方策が改革された。この視察の後、津和野藩でも改心者、不改心者を分けることなく法心庵で生活させることとし、拷問などは禁止された。
明治四年七月、廃藩置県により津和野藩は、浜田県に転入された。
この間、継続して、外国公使より切支丹の禁制を解除するように新政府に働きかけがあったが、新政府の態度を一変させたのは、岩倉遣欧使節団からの電報であった。
「吾人は行く所として切支丹追放者と信教自由との為に外国人民の強訴に接せざるはなし。思うにこの際前者については速やかにこれを解放し、後者に関しては幾分自由寛大の意向を表明せずんば、到底外国臣民の友誼的譲与を期待すべからず」との伊藤博文の文章は、不平等条約改正を目指していた日本にとって、信教の自由がいかに重要なものなのかを知らせるきっかけとなった。
明治五年三月には、改心者が放免され、津和野より八十名が浦上へ戻った。非改心者たちへの取扱が緩やかになると、彼等の内から津和野の切支丹の状況を知らせるべく牢獄を脱し、神戸、大阪の教会の宣教師へ連絡をとることが企てられた。
最新の注意を払った上でのことであろうが、容易く密行が出来たことは、この当時、切支丹への改心強要が、名ばかりのものになっていたことをうかがわせる。この一行に加わったのは、甚三郎、治右衛門他三名であり、無事、三週間後に帰獄している。
一方、外国公使からの抗議や岩倉遣欧使節団からの報告を受けて、新政府は、これまでの宗教政策の見直しを迫られ、高札の禁令を除くべきとの論議が盛んになった。
新政府の方針が改まり、明治六年二月二十四日、太政官布告第六十八号で「高札面の儀は一般熟知の事につき向後取り除ずべき事」とされた。
津和野藩では、これに疑義があったので、
「切支丹御制禁の掲示の無となるや」
と問うたが、
「然にあらず、素より異宗を黙許せらるべき御主旨には無之候」
との返事であったが実情は無と等しいものであった。
この後、光琳寺の「異宗徒御預所」の始末方四人、説得方一人他は被免となり、金森のみ、請負土木・出夫等の取扱として、切支丹の出役管理を命じられた。新政府から、浦上村より津和野に送致された異宗徒を帰国させるようにとの命令が届いた。それに先立って千葉、森岡の元説得方の二名は、送致される者のうち四名を萩に到着する前に自宅に招き饗応して仕置きの誅求であったことを謝した。
千葉は、
「其の方、武士なれば立派な武士なり。お主達の如く固く義を通せる者存せず」
と述べたが、これは仕置きの惨かったことを、異国の者に知らせないようにして、お咎めを避けようとの魂胆からの計らいであった。金森は、その席に出るように誘われたが断った。御役目として仕置きを行ったのであり、もしそれに誤りがあったとしたら、喜んでお咎めを受けようと思ったからである。
金森は、御預入異宗徒の出役管理役として、津和野に残った百三十二名を長崎へ送った。最後まで信仰を貫いた者は、六十八名であった。己がその拷問に関わりながらも、金森は改めて、耶蘇の教えとは果たして、邪宗門と蔑まれるようなものであるのかと考えざるを得なかった。
これで、金森の御役目は全て片付いて、受け入れた異宗徒に関する命令書等を全て浜田県に引継ごうとしたところ、福翁より全て焼却せよとの命令があった。津和野藩の御預となった異宗徒の数に比して死者が多かったので、その顛末を覆い隠すための狙いがあったようである。金森は、それに対して抗う気力は既に無く、その大半を焼却した。
あれほど天下の御制禁であった耶蘇教が、列強の恫喝により一朝にして許されることとなった。もう少し時の到るのが早かったならば、このような結果にはならなかっただろうと金森は思った。
これでは、あの者達の死にはどのような意味があるのだろう。彼等はパライソに行ったのだから、幸せだったのだろうか。いや、人は今生において、生の限りを尽くして生きてこそであろう。それにしても、三十六名の命を奪った己の罪科は尋常ではない。この金森を裁きうる者が顕れて、我を裁けと金森は願った。
金森の妻は、夫が御役目を仰せ付かったことを慶んでいたが、仕置きについては、批判めいたことは何も言わなかった。金森が御役御免となってからは、光琳寺に参り亡くなった浦上村の者共の供養を続けていた。殊に、氷責め、三尺牢で亡くなった者には、仕置きの惨きことを慰めていた。
妻は、気丈夫の女と思っていたが、金森に死人の多いことを苦にし、評定所跡などに霊を見たなどと話すことが多くなり、寝込むことが多くなった。死の床にあって、狂気と正気が立ち替わり現れた。最後には、幼い娘のことのみを口にした。金森は、霊の仕業ならば、この一峰に祟れと思ったが、何事もおこらず日が過ぎていった。
版籍奉還、廃刀令の次は、秩禄処分であった。新しい時代になったからといって、まさか武士の世がなくなるとは誰が思っただろうか。しかし、世の中が移り変わったとて人の心は変わるものではない。政の結果として亡くなつた者を成仏させようとする人もなく、金森は三十六人の名を書き連ねた位牌を仏壇の奥に蔵して、日夜、冥福を祈った。
近所に住む者は、金森の妻の気が触れて死んだのは、拷問で亡くなった切支丹の祟りだと言いふらしていた。しかし金森は気にも留めず、ただ娘の育つのを楽しみとして余生を送った。
明治十年(一八七七年)五月、金森は自宅に元の説得方の面々を集めた。集まったのは、佐伯 栞を除く三人だった。佐伯は、神官であり藩士ではなかったという理由で、集まりを断った。
金森は、用事を切り出した。
「お集まりいただいたのは、他でも御座らん。亡くなった切支丹のことでござる。せめて菩提を弔いたいと考えるが、諸賢の意見をお聞きしたい」
「菩提を弔うと言うが、誰がそのようなことをするのだ。耶蘇教のパードレなどに知り合いはいない。もし、いたとしても、どのようにして頼むというのだ。我等が、元の説得方とわかれば、それこそ切支丹を死に追いやった者として糾弾されるだけではないか」
千葉が、庭の菖蒲の花を見ながら吐き捨てるように言った。それに被せるように、森岡が、言った。
「さよう、それに三十六名もの葬儀をどのようにするのか。我等は、先年の秩禄処分により既に禄を受ける身分ではない。出す金などない」
「あれは、御役目だったのだ。死んだ者には、申し訳がないとは思うが、我等はやむを得ず行ったに過ぎない。その責めを負えと言われても、お門違いと云うものじゃ」
千葉が、くり返した。金森は、三六名の命が失われたという事実の重みを考えて欲しかった。
「人として、人の道からしてと考えているのでござる」
「あれは、藩命なり。それを難ずるは、旧主を難ずるものと心得よ」
だが、千葉の最後の言葉が、金森の願いを断ち切った。話し合いの結果は、ある程度予想されたものだった。金森は、一人で信徒を埋めた千人塚を詣で、草をむしり香華を手向けた。
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