第5話 異宗徒
六月十七日、長崎から蒸気船に乗せられた一行二十八名は、下関から尾道に到り、さらに尾道から安芸国廿日市の津和野藩御船屋敷まで運ばれた後、津和野街道を二十里程徒歩で移動して津和野城下に到着した。五月二十日に長崎に召還されてから約一ヵ月が経過していた。梅雨に濡れた木々の緑と、美しく吹渡る風が心地よかった。
津和野藩では、異宗徒を収容するのに、藩丁の北、約半里に位置する光琳寺を選んだ。乙女山の中腹にあり、そこから続く道を上ると乙女峠に到る光琳寺が、異宗徒の御預所となった理由は、光琳寺が既に廃寺となってはいたものの、なお本堂、庫裏が残り罪人を収容することができたこと、評定所よりさほど遠くないこと、そこが三方を山に囲まれ脱出が容易ではないと思われたことなどである。
藩丁では、その周囲を竹矢来で囲み逃走を防ぎ、信徒の起居する広間には畳を敷き火鉢なども備えた。なお、一日のあてがいとして米五合、味噌二十匁、菜代七十三文、かみ一枚と定め、朝昼夕三度賄い方より与えた。これは、囚人に与えるものとしては、質、量とも申し分のないものであった。
最初の半年間は、僧侶から仏教が耶蘇教よりも優れていることを説かせて教導したが、効果はなかった。後に神官、藩儒に代わっても一名たりと言えども改宗する者はいなかった。
この結果を知らされた福翁は、己が申し出た懐柔策に効果がないと思ったのか、木戸侯に謗られることを慮り、説得方に良き様に為すよう書面をもって命じた。説得方一同が、その真意を問うと、穏健懐柔策は、藩侯の献策によるものであり、良く、その意図するところを慮るようにとの返事があった。詳細は分からないが、端的に言えば、結果を出せということであったと思われる。
そのため、説得方が集まり話し合いの結果、今までのようなやり方では、何年かかっても、埒が空かないということで、意見が一致した。人の耐え難い方法で棄教させることが必要だった。その拷問として考えられたのは、食断ちと衣断ちであった。ただし、身体に痕の残るような拷問はさすがに控えられた。だが、この取り決めも、改心が思うように進まぬにつれ、有名無実となった。
いつまで経っても、詮議が始まらないことに不審の念を抱いた異宗徒の代表が、千葉総括兼説得方の御用吟味に異議を申したてた。
「我等を長崎奉行所に引き渡し、法に基づいて従いてお裁き下さいませ。そうなっても、棄教をして切支丹の数の減ることはありませんが」
と。千葉曰く、
「お主らのお裁きは、当方の計らいにして汝等の分にあらず」
これより後、吟味は愈々厳しくなっていった。
まず己が罪人たることを知らしめるが為に、広間より畳を剥がし布団に代えて蓆とし、一日の食も米三合、塩少々と水のみとした。又、着物は捕らわれた時の単衣だけを許した。この為に厳冬の津和野は耐え難いものとなった。一日の食から味噌と菜をなくし、米五合から三合に減らしたことも異宗徒にとって厳しいものがあった。
空腹に耐えかねてか、十六名が棄教を申し出た。改宗した者は、山の麓の法心庵という尼寺に移され、一日米五合、菜代七十一文、ちり紙一枚が与えられた。残った十二名については、従来通り説諭が日毎に行われたが、仕置きは、愈々苛烈になった。また彼等は、四人一組として法心庵に移され、食を与えられず隣座敷にて改宗した者の食事の様子を見せられた。
非改心者を棄教させる事は、通常の手段では難しく、非常の方策を取らざるを得なかった。氷責め、三尺牢責めをするには、些かの逡巡があったが、説得方の役目は、藩命であり、やむを得ないこととであった。
氷責めというのは、厳寒の折に、衣服を脱がせ裸にした異宗徒を寺の凍池に入れ、寒さの余り水面より浮かぼうとするところを竿で押し戻し改心させる方法である。三尺牢は一面のみを格子とし、残り五面を三尺四方の板で囲んだ箱の牢で、その狭さ故起ち又眠ることができない過酷な責具である。
他にも「駿河問い」、飢え責め等があったが、その拷問を行う者は、人ではなく悪鬼羅刹の類いのようであった。「駿河問い」とは、手足を後ろ手にして縛り、梁から吊し、鞭打つという拷問である。彼等は藩命により役目を行っていたが、いつしか畜生道に落ちていたのだった。
金森は、他の説得方に聞いた。これほどまでに異宗徒を責める必要があるのかと。同輩が応えて、
「あの者達が改心しなければ、我々の落ち度となり禄は召し上げとなるかもしれない。そうなれば先祖に会わせる顔がない。やむを得ず行っているのだ」
金森も他にどうしようもなければ、それ以上言うことができなかった。
氷責め、飢え責めですぐその場で死ぬ者はいなかった。亡くなった者は、全て体が弱くなり病気になった者であった。しかし、棄教しない者が何名かいた。詮議は、若い者から始められた。最年少の宗徒に、守山甚三郎という者がいた。甚三郎は、冬の夜から朝方まで、御用場の土間に敷いた一枚の蓆に坐らされ、説得方の三人から説得を受け続けた。飢え責めで弱った身体に、単衣一枚では人が耐えられる限界を超していたが、不思議なことながら、甚三郎は耐えていた。
甚三郎には、「過去」があったのである。彼は、浦上四番崩れのあった慶応三年、長崎で捕縛され、拷問の末一度は棄教した身であった。だが、拷問を受けた仲間で仙右衛門という者が、一人だけ節を曲げなかったことを知り、慚愧の念にたえず「改心戻し」をして、今、津和野の地にいたのだ。
三尺牢で最初の犠牲になったのは、二六歳になる和三郎だった。和三郎は、「駿河問い」の拷問を受けたあと、牢に投げ込まれ二十日間を耐えたが死亡した。
評定所で行われていたこの拷問を、朝な夕なに通りすぎながら見ていた少年がいた。森林太郎、後の森鴎外である。彼は、金森の実弟の米原綱善の弟子として六歳の時、漢籍を学んでいたが、その家は、評定所から三十間許りのところにあった。
森鴎外は、十歳で上京し、陸軍軍医総監にまでなったが、津和野藩での仕置きについて文章を残すこともなく、また郷里に二度と足を踏み入れることはなかったとされている。
鴎外が、上京した後も、森家と米原家との交際は続いていたことを考えると、鴎外が津和野に赴くことのなかった理由の一つとして、仕置きに関わった金森との関わりを避けたことが挙げられているが、真相は不明である。
ある日、千葉、森岡、金森の三人が、甚三郎一人を評定所の奥の間に呼び出した。彼の前に趣向を凝らした珍味を並べ饗応に及んだ。その真意を図りかねた甚三郎は、勧めには乗らず料理に箸も付けなかった。千葉が言うには、
「そなたは、まだ若く将来がある。今、ここで我を張り通して死ぬことはない。我等三人は、御役目としてお前達を改心させようとしているだけで、お前らが憎いわけではない。
もし、我等が改心させることができなければ、我等三人は、腹を切らねばならぬ。我等には、妻も子もある。どうか、我等を助けると思って改心致せ」
とのことであった。
甚三郎には、なるほどお役人達にも、それなりの理由があるのだと納得はしたが。改心することを受け入れることはできなかった。ここで棄教するならば、今までの苦労は何であったのかと自分にも役人達にも言い聞かせた。森岡は、激して
「明日、山の上でそなたを打ち首にいたす。後悔するな」
と言ったが、異宗徒に対し死罪ではなく、改心させることを目的とする対する新政府の処罰方針を知っていたとは思えない甚三郎の回答は見事であった。
「長崎奉行所では、人を殺めた者であっても、裁判を行い、死刑を言い渡した後に、罪人にその罪状を公証し、本人から死刑を受けても異議はないとの爪判を受けます。それを江戸に送って、認可を受けて処断を行います。私が切支丹であるという理由で、死罪になるなら、同様の手続を御願いします」
金森は、百姓身分の者にも、甚三郎のような者がいることに驚いた。この男が学問を身につければ、養老館の秀才でも太刀打ちができないことになるのではないか。
その後も、拷問は続いたが、ついに説得方の三人は、甚三郎と仙右衛門に「氷責め」を行うこととした。光琳寺に小さな池があり、一一月末で池には氷が張っていた。素っ裸にされた二人が、その池に投げ込まれたのである。池の岸辺は深く足が着かなかったが、中ほどに浅いところがあり、そこに足を着いて頭を氷の上に出すと、頭から水をかけられた。冷たさのあまり気を失いかけたところを引きずり出され、焚き火の近くに寄せられ、そこで息を吹き返した。
そのような拷問が続けられているある日、福翁が津和野にやってきた。福翁が来藩したのは、明治元年末のことで、御預異宗徒の改心の状況を知るためであった。二十八名中、一二名は尚志操堅固にして棄教させることができないでいた。
福翁が取った行動は不可解だった。翁は不改心者の一二名に下駄と編み笠を与え、なお病気の二名を除いた十名を藩の御殿の大広間に招待したのである。仁慈ある言葉で、切支丹の辛い様を遺憾とし、かつ異宗徒と共に飲食し切支丹の教えについて問い糾した。
翁の来藩した理由は、
「天皇様より石州に行かば津和野の預け人を見てこよ」
と所望されたためとの事である。只、翁より他の宗旨にては救われることはないかと質問したが、救われる手立てはありませんと答えると、甚く気を損じた。
その晩は詮議なく仕置きもなかった。福翁は、別れに際して、御殿に来ることができなかった病気の者のために酒肴を届けさせた。東京に戻った後も、何度も金銭を彼らに授けていたという。
こうしたことは、説得方の仕置きの結果を遺憾と受け止め、自ら懐柔しようとするとの思いからであっただろうか、福翁の切支丹への態度には、不審なものがあった。
明治三年一月、第一次流罪の二八名の家族にあたる一二五名が第二次流罪組として到着した。第二次流罪の切支丹には、女・子ども・老人が加わっていたが、仕置きの手が緩められることはなかった。飢え責めとして一日に米は一合三勺、味噌少々、塩一つまみ、湯小桶一杯が与えられただけであった。当然のことながら飢えに苦しみ、転ぶ者が続出した。また転ばない者は、命を落とすこととなった。それら改心者は、法心庵に移された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます