第4話 切支丹の流罪処分
明治元年六月八日 津和野藩を含む二十藩に対し太政官より切支丹の流罪処分につき命令が下された。この時、金森は四十歳になっていたが、御預異宗徒御用係を命じられた。御用係内訳は左記の通りだった。
総括兼説得方 藩士 千葉常善
説得方 同 森岡幸夫
同 神官 佐伯 栞
同 藩士 金森一峰
この内、説得方の森岡は、その後上京し新政府の神祇官へ出仕となった。金森はその後任となったが、後に、森岡は再度説得方に命じられ津和野に戻っている。金森は、千葉の跡を継いで、最後には総括になった。なお、異宗徒には、説得方の他に始末方、賄方も付けられた。
福翁は、津和野に来て、御預異宗徒御用係説得方を集め、切支丹の改宗につき申し渡した。
「日の本の教えは、本来神ながらの道である。欽明天皇の御代に、百済より仏法が伝来し、以後歴代の上皇、天皇は、皆仏教に帰依している。だが、神道を棄てたのではない。また、儒教も中国から伝来して久しい。耶蘇の教えは、君臣聖賢の道を否定し、親先祖を大事にすることなく、まず己一人が往生することを願うが、是は人倫に反するものである。
異宗徒を棄教させる手段は、力によることなく穏やかに教導説諭することとする。故に、異宗徒の扱いは、粗暴を避け寛恕を宗として、己が過ちを知らしめることを主眼とする。
無学な百姓を教導するに当たっては、神儒仏のいずれより始めてもよいが、当藩においては、彼の信徒なるは文盲浅学の民なので、初めに僧侶より仏道をかみ砕きて学ばせるのが良かろう。
そのため、当藩の僧侶、神官或いは藩儒にて有能達識なる者を以て教導の役に任ずることとした。この役目たる者、己が信念と知識により耶蘇教の非にして、日の本には受け入れられざること並びに教諭する側が正しきことを明かす必要がある。
御前会議で切支丹を送致されることとなった藩は、名古屋以西の十万石以上の大藩であるが、本藩は、特に選ばれたものである。その理由は、藩公の献策を重んじたためであり、諸子は、御役目大事に励まれたい」
これによって御用の趣旨が明らかとなって、異宗徒の詮議が始まった。
藩士たる者として、御役目は大事であり、どのような役目であっても大事なことに代わりはなかったが、罪人の處斷は君子是を避くべしと言われており、金森には些か慨嘆するものがあった。
金森始め説得方の面々は、切支丹を納得させて棄教させるにあたり、その理屈を書物に求めた。耶蘇教の教義の不合理であることを述べてこれを退ける書物を排耶書と言うが、当時、「闢邪大義(慶応二年)」、「内外二憂録(慶応三年)」、「寒更霰語(慶応三年)」の三書があった。
その中に、耶蘇書の十戒には、忠孝を教えていないとの記載があった。五倫五常は人の本来の性であるのに、耶蘇教で、そのことを教えないのは何故なのか不思議であると説得方の面々には思われた。
「十戒中敬父母ノ条アリテ敬君主ノ教ナシ」「十戒中ニ敬父母ノ言アリト雖モ、(略)耶蘇教ニテ聖人賢者ト尊フトコロノ(略)者ニ一人ノ孝子ト称スヘキ者アルヲミス」
排耶書を読んでも、金森は異宗徒の改宗が容易くできるとは思わなかった。何故なら信仰には、俗に「鰯の頭も信心から」と言うとおり、理屈ではないところがあるからである。強制されれば強制されるほど、その信仰を曲げないのが人情であろう。しかし、御役目であるからには、道理にも人情にも訴え、異宗徒を改心させようと覚悟した。
津和野藩が切支丹に対し、どのような方法で棄教させようとしたのかを、記載した文書は現存していない。廃藩置県の際に焼却されたと思われる。残されたものは、弾圧の手がゆるめられた明治四年五月に、津和野藩が外務省に提出した改宗指導要領ともいうべき「説得の大旨」である。全文の内、方法に言及している部分を左に掲載するが、教化が進まず、その後、拷問までに到った経緯を考慮すれば、児戯に等しい内容であると言わざるを得ないものがある。
一 説諭ノ席ニ召出シ候事、多人数一同ニテハ彼等互ニ固ク守リ候躰ニ付、一人宛別ニ説得致申侯、説諭度々ニ及ヒ強情申募候者ハ、別屋ニ独案ヲ凝サシメ申候、全躰我慢頑愚ナル者ニ付、説諭方至極心長ク懇情ヲ尽シ、精神ヲ以テ待シ候心得ニ御坐候、右ノ如ク致シ候得ハ、案外速ニ改心致シ候事モ有之候、改心致シ候モノへ請状血誓申付、夫ヨリ身滌致サセ、大祓ノ法申付、日ノ祝詞等相授ケ、敬神尊皇ノ実儀弥委舗申聞候テ、諸事改心ヲ促ノ様致申候
但、彼宗ノ儀既ニ儒仏ヲ看破シ、仁慈ノ実行ト称シ貧弱ヲ恵ミ、誘導伝習致シ候事ニ付、篤ト勘考致シ真実大本ノ道理ヨリ、帰正改心致サセ候様取計候事ニ御坐候
他藩に比して、津和野藩での犠牲者が大きかった理由は、送致された人々が、切支丹の中心人物であり、拷問によっても棄教させることが出来ないほどの人々であったことが上げられる。
なぜ、そのような人々が、津和野藩に送られたかと言えば、福翁らの空疎な自信にその一因があろう。その空疎な自信に基づく寛典論は新政府の重鎮をいたく刺激し、それほどに申すなら特に信仰堅固な者と対峙し、見事これを改心させてみよとの思いが生じたものと思われる。
現時点においても、耶蘇教の教義に対抗し、かつ捨てさせることができるほどの思想性を、津和野本学に見いだすことは出来ないが、福翁らの無益な自信がうまれた原点を探ると、人は、宗教の如何を問わず思想というものに自己の生死をかけることがあるということに、全くの無知であったということが浮かび上がってくる。
さらに、福翁の切支丹改心の自信は、津和野藩の自信として臨藩の山口藩からも、その方法について御教諭をいただきたいとの願いが寄せられるほど、他藩にも知れ渡っていたが、それも又、金森を初めとする説得方への圧力となったものと思われる。
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